三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹操(そうそう) 字:孟徳(155~220)その6

さて、曹操紹介6回目じゃな。

前回屯田制について語ったが、曹操の実績はまだ他にもあるんじゃよ。この辺りを続けて語っていくとしようかのう。曹操の場合、軍事、政治以外にも面白いことをやっている人物なので。

曹操紹介その1(戦歴)

曹操紹介その2(徐州虐殺?編)

曹操紹介その3(魏武注孫子篇)

曹操紹介その4(その他戦役編)

曹操紹介その5(屯田制)

曹操紹介その7(政治・文学篇)

曹操紹介その8(その他・小ネタ編)

曹操紹介その9(遺令・能力評価等) 

 

政治内容紹介

さて、今回は政治面の続きじゃろうな。

師匠、屯田制ですが、数百万人規模の人が皆疑いもなく募集に応じたんでしょうか?

どうじゃろうなあ。張郃の伝の所でも書いておるが、曹魏は良く住民を移住させたりして、とにかくどん欲に人間を確保しようとしておる。もっともこれは曹操に限らず三国いずれも同じじゃがな。そうなってくると意に反した形で組み込まれたものもいたとは思うぞい。

うーん、やっぱり税率の高さとかを考えると、皆が諸手を挙げて称賛するようなものとはちょっと違うように思いますからね。

じゃがまあ、民衆にしてみれば上の政治がどうこうというよりも中原が安定しているかどうか、の方が重要じゃからな。国が漢か魏か、とかは正直どうでもいい話で、安定した治世になってさえいれば、人は自然と集まってきたじゃろうからな。

魏はそういう面では安定していたと言えますか?

うむ、国境付近の戦いは多かったが、中原の奥深く攻められることはなかったからのう。だからこそ魏は文化的にも大きく発展したと言えよう。

なるほど、他にも施策があった、と言うことですから、今回はその紹介ですね。

うむ、それでは続き行くぞい。

兵戸制

後漢末期の人口が大きく減少しておったことは単純に兵力を確保するのが難しくなっておったことを示しておるんじゃ。そこで青州兵を見てみると、彼らは191年から192年頃に曹操に降ってから、曹操が亡くなる220年までその存在が確認されておる。

さすがにこれだけの期間、兵団を補充なしに維持し続けることは不可能じゃと考えられる。そこで曹操が行った兵戸制が出てくるんじゃ。

これは日本の戦国時代で名前が出てくる兵農分離と原理は似ており、兵士専門の家を作り、その家から兵を徴収することで兵力を安定維持する、と言うシステムじゃな。

こちらも当然一般の民とは戸籍を別とするんじゃ。兵戸の家に生まれた兵士は余程のことがない限り兵戸を抜けることはできず、親から子、子から孫へと兵役義務が世襲されていくんじゃ。

彼らは兵役に専念してもらうため税負担などは軽減されておったようで、また家存続のために積極的に妻をあてがわれる等の施策も施されておったようじゃ。じゃが兵士として戦わねばならんリスクがあるということを考えると、手放しでは喜べんじゃろうな。とは言えこの兵戸制は三国時代の後、五胡十六国時代、そして南北朝時代南朝にまで継承され、兵力確保の重要なシステムとして数百年使われる、後世への影響も非常に大きかったシステムと言えよう。

求賢令

三国志の時代に曹操程人材を積極的に集めた人物はいないと思われる。荀彧に多数の人材を推挙させ、また戦場で降伏してきた敵を受け入れ有能な人物は積極的に登用し、時には己を裏切った人物をも許して再度取り立てているほどじゃ。求賢令が有名じゃが、それ以外にも色々なことが史書には載っておる。具体例を挙げていくとしようかの。

畢諶

曹操兗州牧だった時、畢諶を別駕に任じたんじゃ。張邈が呂布と共に反旗を翻した時、張邈は畢諶の母、弟、妻子を脅迫したんじゃ。そのことで曹操は君臣の関係を断って彼を生かせようとしたんじゃ。畢諶は二心を抱かない、と誓ったんじゃが、結局退出後、逃げ出してしまったんじゃ。後曹操につかまり、皆が処刑されないか心配したんじゃが曹操は「親に孝行な人間が、主君に忠義でないはずがない。」と言って彼を許し、魯国の相にまでしているんじゃよ。

魏种

曹操は魏种を孝廉に推挙したことがある関係だったんじゃ。兗州で反乱が起きた時、曹操は「魏种だけはわしを見捨てることはないだろう。」と言ったんじゃが、当の魏种は逃げ出してしまったんじゃな。曹操は怒り、「南方の越か北方の胡にでも逃げない限り、お前を捨ておかぬぞ。」と言ったんじゃ。

後、魏种を生け捕りにすると、「その才能が有れば」と言って、彼の戒めを解いて再び登用したんじゃよ。

官渡の戦い

官渡の戦いで勝利し、袁紹にあてた書簡の中に、許や軍中の人のものが混じっていたが、曹操はこれらをすべて燃やして不問にしたんじゃ。曰く「袁紹の強力な時にはわしですらとても安全とは言えんかったのじゃ。まして一般の人は当然のことだ。」

202年の布告

「私は義兵を起こし、天下のために暴乱を除去したが、故郷の人民はほとんど死滅してしまい、丸一日歩き回っても顔見知りに出会わない。私は愴然たる思いに胸をいたませられる。

義兵をあげて以来、死んで跡継ぎのない将兵の場合には、その親せきを探し出して跡継ぎとし、田地を授け官より耕牛を支給し、教師をおいてそのものに教育を施させよ。

跡継ぎの存在しているもののためには廟を立ててやり、その先人を祭らしめよ。霊魂と言うものが存在するならば、わしが死せる後もなんの思い残すことがあろうぞ。」

203年の布告

「動乱以来15年間、若者たちには仁義礼譲の気風に接していない。わしはそれを甚だ痛ましく思う。よって郡国に命じてそれぞれ学問を修めしめよ。五百戸以上の県には校官を置き、その郷の俊才を選抜して教育を施せ。

願わくば先王の道が廃れずに、天下に利益があらんことを。」

210年の布告

「古代以来創業の君主・中興の君主で賢人君子を見出し、彼らとともに天下を統治しなかったものがおろうか。君主が賢者を見出したについては、まるっきり村里に出向かなかったら、いったいうまく出会えただろうか。上にある者が探し求め、起用したからこそである。

今天下はなお安定を見ない。それこそ特に賢者を求めることを急務とする時期である。(中略)もし必ず清廉の人物であってはじめて起用すべきとすれば、斉の桓公はいったいどうして覇者になれたであろうか。

今、天下に粗末な衣服を着ながら玉のごとき清潔さをもって渭水で釣りをしている者(太公望のような人)がいないと言えるだろうか。また嫂と密通して賄賂を受け取ったりしているが、才能を持ち魏無知にまだ巡り合っていない者(陳平のような人)が存在しないといえようか。

二、三の者よ、わしを助けて下賤の地位にあるものを照し出して推薦してくれ。

才能のみが推挙の基準である。わしはその者を起用するであろう。」

214年の布告

「そもそも品行正しい人物は必ずしも行動力があるとは言えず、行動力のある人物は必ずしも品行が正しいとは言えない。陳平はいったい篤実な行為があったであろうか。蘇秦はいったい信義を守ったであろうか。ところが陳平は漢の帝業を定め、蘇秦は弱国の燕を救った。

このことから言えば、士人に短所があるからとて、どうして無視できることができようぞ。役人がはっきりとこのたてまえをわきまえれば、忘れられ昇進できずにいる人物はなくなり、仕事が行われていない官職はなくなるであろう。」

 

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雑談ぢゃ

さて、曹操の政治に関して、今回は兵戸制と求賢令じゃぞい。

求賢令は曹操の執念を感じますね。何度も人材を推薦してくれるよう、布告しているじゃないですか。

まあ、これは人材登用に限らずじゃがな。遺族に補償を厚くしたり、例えば冀州を制圧した後はその年の租税を免除するような布令を出したりもしておる。

曹操陣営は連戦が多くて人的損失もそれなりに大きかったでしょうからね。

そうじゃな。曹操は常に人材を求め、そして結局こうやってかき集めた人材によって、魏は最強国として君臨できたのは間違いあるまい。

唯才ってその後名前聞かないですよね。これは廃れたんですか?

そうじゃな、唯才主義は曹操一代で終わり、その後九品官人法と言う別の制度が施行されるんじゃ。これは科挙が始まるまでの数百年、人材登用のベースとなったんじゃよ。そしてこれは日本での冠位十二階の制度にまで影響を及ぼしているんじゃ。

それはそれですごいですね。でも唯才主義が浸透しなかったのは何故でしょうか?

うむ、これを儒教と対立する曹操と言う図式にして、曹操の唯才主義を否定するために、儒者が九品官人法を作ったと言う意見もあるんじゃが、ワシはそう思わん。

それは何故ですか?

才能のみと言う人物は本来組織を乱す存在であり、そんな人材を使いこなせるのは極僅かだからじゃ。使いこなせなくなれば、その人物は獅子身中の虫となってしまう。

乱世の時代に曹操のような人物がいれば、そんな人物でも腕を振うことができますが、安定してくると扱いが難しくなってくるということですか。

そうじゃ、そう言うことを防ぐため、安定した世でなら徳行がある程度求められてくるのじゃ。九品官人法がそもそも徳行を推薦要項の一つとして挙げておったが故に、このような誤解を広めておるが、曹操自身別に儒学的生き方を否定しておらん。彼が否定しているのは才能も徳行も持ち合わせていないのに、ポーズだけそのように振舞っている人物だけじゃと思うぞい。

そう言えば畢諶も、その親孝行な行為から彼を許していますよね。

うむ、曹操自身、余財とかは持たないよう清廉な生活を務めておった、と言う話じゃからのう。まあデリケートな話故、これはこの辺りまでにしておこうかのう。

さて、また長くなってしまったので、今回はここまでにしておくとしようかのう。

次も見てくださいね、それではまたです。

 

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