三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹操(そうそう) 字:孟徳(155~220)その2

さて、曹操紹介2夜目じゃな。

1回目は曹操の戦歴を追っかけて行ったが、今回は実際の戦闘に関してちと気になる部分を紹介していくとしようかの。全部を載せるのはさすがに無理じゃからな。

あくまでもいくつかを、じゃな。

曹操紹介その1(戦歴)

曹操紹介その3(魏武注孫子篇)

曹操紹介その4(その他戦役編)

曹操紹介その5(屯田制)

曹操紹介その6(兵戸制・求賢令)

曹操紹介その7(政治・文学篇)

曹操紹介その8(その他・小ネタ編)

曹操紹介その9(遺令・能力評価等)

 

軍事内容紹介

さて、昨夜は曹操の戦歴を紹介したんじゃが感想はどうじゃった?弟子よ。

そうですね。初めて戦う相手とは意外と勝ちきれなかったり負けたり、と言う印象があります。

ほうほう、なるほどのう。確かに呂布袁紹孫権馬超と言った強敵相手じゃと初戦は不利だったり敗れたりすることが多いんじゃ。じゃが気が付いたのはそれだけかの?

確かに初戦は不利なこともありますが、同じ相手との連戦も多いですよね。そして多くの相手にはその後きっちりと勝ち切っていますよね。

うむ、そうじゃな、それこそが曹操の強さの秘訣じゃな。一度戦うことで相手の長所、短所を見抜き、新たな戦術で対策を立てて同じ戦いを繰り出す敵を撃退する。サッカーで言うと、ジョゼ・モウリーニョバルサ相手に戦術を変えて戦ったりしておったが、アレがイメージとしては少し近いかもしれんのう。

戦歴を見る限り曹操が最後まで勝てなかったのは劉備孫権のみですね。

そうじゃな、そしてその二人とも曹操に攻め勝った訳ではなく、地の利を生かした守りで粘り、曹操に負けない戦いで何とか撤退に追い込んだ、と言うものがほとんどじゃからな。

そう考えるとやはり曹操はすごいですね。

うむ、それではいくつか曹操の軍事行動について説明を行うとしようかの。

軍事行動

徐州大虐殺の真実?

さて、曹操と言うと最大の汚点として、徐州で行った大虐殺が挙げられるんじゃが、幾つか腑に落ちん点もあるんじゃ。ここは一つずつ史書の記述を紐解き、徐州で一体何があったのかを見ていくとしよう。 

武帝紀』

193年に下邳の闕宣が軍勢数千人を集め、天子と自称した。徐州の牧陶謙は彼と手を結んで兵を挙げて泰山郡の華と費を奪い、任城を攻略した。秋、曹操陶謙を征討し、十余城を陥落させたが、陶謙は城を固守して敢えて出撃しようとしなかった。

(中略)

194年(興平元年)春、曹操は徐州から帰還した。曹操の父の曹嵩は董卓の乱が起きた時に瑯邪へ避難し、陶謙によって殺害された。そのため曹操は復讐を志して東へ討伐へ赴いたのである。

夏、荀彧と程昱に鄄城を守らせ、再び陶謙を征討し、五城を陥落させ、そのまま土地を攻略しつつ東海まで行った。帰還の途中郯を通過した。陶謙の将、曹豹は劉備と郯の東に駐屯しており、曹操を迎え撃った。

曹操は彼らを撃破し、さらに進んで襄賁を攻略した。通過した地域では多くの者を虐殺した。

  

『世語』(武帝紀注)

『世語』に言う。曹嵩は泰山の華県に滞在していた。

   

陶謙伝』

193年(初平4年)、曹操陶謙を征討し、十余城を攻め落とし、彭城まで行って大会戦となった。陶謙の軍は敗走し、死者は万単位に上り、泗水はこのために流れがせき止められた。陶謙は退却して郯の守りを固めた。曹操は兵糧が乏しかったために軍を引き上げ帰途についた。

194年(興平元年)、曹操は再度東方征伐を行い、瑯邪・東海の諸県を攻略平定した。陶謙は怖気づき、丹陽に逃げ帰ろうとした。

  

『曹瞞伝』(荀彧伝注)

董卓の兵乱に遭遇して以来、都(洛陽)の住民は流浪して東方(徐州)へ移り、多くの者が彭城へ身を寄せた。その時曹操がやってきて男女数万人を泗水に投げ込んで殺害し、川はそのために流れなくなった。

陶謙がその軍勢を率いて武原に陣取ったために曹操は進軍できず、軍を引き上げ南に向かい、取慮、睢陵、夏丘の諸県を攻撃し、これらを皆攻め滅ぼした。鶏や犬までも絶え果て、荒れ果てた村里には通りかかる人もいなくなった。

 

さて、ちと時系列を追ってみようかの

陶謙は泰山郡のを奪った。(『武帝紀』)

曹操陶謙を攻め十余城を攻め落とした。(『武帝紀』『陶謙伝』『魏武注孫子』)

陶謙彭城で大会戦、陶謙側は多数の戦死者が出た。(『陶謙伝』『曹瞞伝』?)

陶謙に退却し、城の守りを固めた。(『武帝紀』『陶謙伝』)

曹操は兵糧が付き、退却した。(『陶謙伝』)

曹操は南に向かい、取慮、睢陵、夏丘の諸県を攻め滅ぼした。(『曹瞞伝』)

さて、ここで出てきた地名の位置関係を見てみるとしようかのう。

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徐州征伐

曹操の進軍ルートじゃが

兗州の北東部から南下

 ↓

費の横を更に南へ抜けて彭城へ

 ↓

東北に向かい、郯に退却した陶謙を追撃

 ↓

兵糧が切れたので退却

 ↓

兵糧切れの退却なのに、何故か本拠地とは逆の南方の夏丘等を攻めて虐殺???

 

進軍ルートを考えると最後のルートがどうにも理屈に合わんのじゃよ。

『曹瞞伝』は曹操とは敵対側である呉の人による書物で、曹操を悪く言うためならあることないこと、まるで見てきたように書いておる、かなり信ぴょう性に欠けるものじゃから注意が必要じゃ。

最後の南方迂回も、兵糧が尽きてる状態でこんなルートを通るのは、いくら何でも理が通らんじゃろう。じゃがなぜか信用のならん『曹瞞伝』のこんなへんてこな記述が事実であるかのように、そしてさらに頓珍漢なことに、南方迂回ルートで攻め滅ぼされた人民によって、泗水の流れがせき止められた、などと言う人も出てくるほどじゃ。

実は取慮・睢陵・夏丘の近くには泗水は流れておらず、もし死体を川に投げ込もうとするなら何キロも何十キロも死体を運ばないと不可能なんじゃな。

このようにイメージで語られた虐殺説がいつの間にか定説化しておるんじゃが、正直どこまでが真実なんじゃろうな。

 

陳寿は194年の時の第二次徐州征伐で虐殺があった、と書いているが、これも『曹瞞伝』とは時期が違うし、また具体的にどこでどう虐殺したのか、他の史料には書かれておらんから、実態は一切読み取れんのう。

さて、長々と書いてしまったのう。一旦この辺りで切るとしようかのう。

 

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雑談ぢゃ

さて、曹操の戦闘についての考察じゃな。いきなり長くなってしもうたぞい。

師匠計画性皆無ですもんね。もうえらい文字数になっていますよ。

うむ、計画性に関しては何も言えんわい。

それにしても師匠はすごい曹操の肩を持ちますね。実際徐州の虐殺ってどうなんです?

うむ、正直わからんぞい。

はれ、あれだけ書いたのに、ですか。

そうじゃな、内容が史料ごとに大きく違っているので、もはやどれが真実か、は正直読めんじゃろう。じゃが曹瞞伝は信用できんのう。他と比べて整合性がなさすぎるぞい。

それは確かに感じましたね。南方への迂回は明確な理由がないとおかしいと思います。

それと虐殺に疑問を感じるのは、同時代の書簡にはほとんど徐州虐殺の件が書かれてないんじゃよ。特に袁紹は官渡前に曹操を非難する檄文を書いておるが、徐州の件は書いておらん。

普通なら真っ先に曹操を攻撃できる材料として書けそうですよね。

そうじゃ、しかも徐州征伐には袁紹も軍を派遣していることが朱霊の伝を見ると分かるんじゃ。だから知らなかった、などと言うことはないじゃろう。

そう言えば朱霊はその時に曹操を真の名君、と評価してついて行ってるんですよね。虐殺があったとすると、その辺りも奇妙じゃないですか?

そうじゃな。大量虐殺するような人物を、真の名君等と言って従うじゃろうか。

彭城ではかなりの犠牲が出ているようですが、これも常識で考えればあくまでも戦闘による犠牲であって、虐殺と呼べるようなものかは何とも言えなさそうですね。

まあ巻き込まれた民間人が皆無、と言うことはないじゃろう。曹操自身敵対者には容赦しないからの。しかし通り魔的な虐殺とはだいぶ違う気はするぞい。

さて、予想以上に長くなったが、今回はここまでじゃ。次はもう少し短くまとめるぞい。

わかりました、次も見てくださいね、それではまたです。

 

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