三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹操(そうそう) 字:孟徳(155~220)その5

さて、曹操紹介5回目じゃな。

今回は主に治世面における曹操のは達した役割を書いていくとしようかの。こちらもかなりのボリュームがありそうで一回で終わるかはわからんがのう。

曹操紹介その1(戦歴)

曹操紹介その2(徐州虐殺?編)

曹操紹介その3(魏武注孫子篇)

曹操紹介その4(その他戦役編)

曹操紹介その6(兵戸制・求賢令)

曹操紹介その7(政治・文学篇)

曹操紹介その8(その他・小ネタ編)

曹操紹介その9(遺令・能力評価等) 

 

政治内容紹介

さて、今回は曹操の政治面の話をしていこうかの。

曹操は政治面でも革新的なことをいろいろやったと聞きますが、その紹介になるのですね。

うむ、まずは曹操の代名詞とも言える屯田制について説明するとしようかの。これも『曹操 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像(山川出版社』を参考にさせてもらっているぞい。

屯田

後漢末の人口減少

後漢末と言うのは人民にとって非常に生きづらい時代であったのは確かじゃ。後漢は最盛期には5600万前後ぐらいの人口がおったんじゃが、三国志の時代では800万人弱程度まで減っておるんじゃ、実に4800万人もの人口が失われておる。

これは4800万の人間が亡くなったわけではなく、あくまでも国家として把握できる人口がそこまで減った、と言う意味じゃな。何故彼らは土地を捨て戸籍を捨てたのか、と言えば単純に後漢の政治が乱れ、税の取立てが厳しかったことが大きいじゃろうな。

しかも以前何度か書いたが、後漢末期頃は地球全体が寒冷期に突入しており、農作物の収穫量が落ち込んでおった。ただでさえ税の取り立てが厳しい(これは役人が私腹を肥やすため、通常よりもさらに厳しく取り立てていたと考えられる)上に、寒冷期による収穫量の減少と言うダブルパンチにより、もはや漢の民として生きていけんかった、と言うことじゃろう。

いなくなった民たちはどこへ

では戸籍から抜けた人たちはどこへ去ったのか。そこで出てくるのが黄巾賊じゃな。彼らは元農民だったものが非常に多く、自分たちを守ってくれない後漢に対し反旗を翻した、と言うことじゃろうな。

また他にも各地の有力豪族が、己の私民として養っておるケースも多い。実はこれにより力を付けたのが孫呉劉表などの南方政権じゃな。孫呉は豪族連合と言う側面があり、呉の四姓等が非常に力を持っておった。呉の各人の伝を読むとしばしば南方の山鉞を討伐し、兵力を増強したと言う旨の記述があるんじゃ。そして恐らく彼らは流浪の民となった元農民達も取込み、自分たちの勢力増強に努めたと思われる。

また劉表荊州の豪族を取り込んでおる。こちらは実はもう少しえげつない手を使っておるんじゃがな。曹操も有力豪族を取り込んでおるが、彼ら自身の兵力、そしてそれを養えるだけの財力(人的資源も含めて)をあてにしておったのは確かじゃな。

逆に長らく劉備はそう言った豪族層からの支持基盤を持っておらんかった。組織としてなかなか伸長できんかったのは、その辺りの影響が非常に大きいじゃろうな。

青州黄巾賊の降伏と屯田

さて、前置きが長くなってきたが、ここでようやく屯田制の話じゃ。曹操は豪族を受け入れたりしておったが、それでも天下に身を寄せる術もなく、飢えている人民は多数おった。その代表が青州黄巾賊等の黄巾残党じゃな。

曹操はまず彼らを受け入れ、一部を選抜し青州兵として自軍の兵力に組み込んだ。じゃが恐らくこれは青州黄巾賊全体の一割程度じゃと考えられる。基本的に兵力を維持するにはその十倍程度の人口による食料供給が必要とされておる。

当時青州黄巾賊は30万いたとされるので、おそらく兵としたのはせいぜい3万程度で残りの27万は帰農させたと思われるんじゃ。そしてこれがもしかしたら屯田制のきっかけとなったのかもしれん。

元々屯田とは軍が駐屯しておる国境近くで兵自ら田を耕し、自給自足しておったことか屯田、と言う名がつけられておったんじゃ。曹操はこれを軍ではなく、領内で人が逃げ出し、誰も耕すものがいなくなった荒れ果てた土地を開墾させるため、と言う名目で行うようにしたんじゃよ。

軍が国境付近で行ってた屯田は軍屯と呼ばれ、曹操が始めた屯田は民屯と呼ばれ、区別が付けられておるんじゃよ。

196年に屯田制は実施されるが、これに至るには色んな議論があったようじゃ。

税の徴収方法について、元々支配的な意見であったのは、耕牛一頭につき、一定額を賦課させる、と言うものであったんじゃ。元々屯田制は官から屯田民に対し、耕牛、農具、種子、食料などを支給するようになっておったので、耕牛一頭に対し、と言うのは平等で分かり易い税制だったと言えるんじゃ。

屯田制の功労者、棗祇

じゃが棗祇と言う人物がこれに反対をするんじゃ。定額の税制にした場合、豊作の年でも取り立てる穀物が増えることがなく、凶年の場合、収穫量が減るため支払いが難しくなる。

特に冒頭でも述べたように地球全体が寒冷化している時代では凶作になる可能性の方が高く、それでは結局税を払えなくなった農民が逃げ出してしまう、と主張したんじゃ。

そこで棗祇は定額ではなく定率で、収穫した穀物を納めさせる「分田の術」を採用すべきと主張し、曹操もその意見を採用したんじゃよ。

具体的な税の割合は以下のような形じゃ。

私牛を持っている場合・・・収穫の5割を徴収

官牛を支給された場合・・・収穫の6割を徴収

通常の税率は今の日本と同じでせいぜい1割程度だったと言われるから、この税率は相当高いと言えるじゃろう。今の日本なら暴動が起きてもおかしくないものじゃ。それでも後漢の腐敗した政治で、生きることすらままならなかった人民にしてみれば、生活の保障がされる、と言うことで進んでこの募集に応じておったようじゃ。

これにより曹操は軍事力を行使するための基盤を得た、と言うことになるじゃろうな。

屯田制の効果

さて、屯田制による効果がどの程度であったか、はっきりしたことは数字がないから言えんのじゃが、間接的にその規模を推測することはできるんじゃよ。

まず、屯田民は一般の人民とは管理する部門が別になり、そのため戸籍には登録されておらんのじゃ。一般の人民は郡の太守が管理し、実数を把握しておったが、曹操屯田民の管理のため、典農官と呼ばれる諸々の役職を新たに作り、郡県ごとに配置して屯田民の管理を行わせておったんじゃな。

郡県ごとに管理、と言うことは相当規模が大きく、それだけ曹操政権を支える基盤としての効果が高かったものと考えられるんじゃ。じゃが皮肉なことに、曹操により中原は安定していくことで魏は裕福になって行き、屯田民の必要性は徐々に薄れていくんじゃよ。

屯田民の規模

これも実際の規模が分かるような数字は残ってないんじゃが、魏から晋へと時代が移行していった264年以降、屯田制は廃止されていき、屯田民も一般民と同じ郡太守の管理下、戸籍に組み込まれていくようになったんじゃ。

280年、晋が天下統一した時に晋が管理しておった人民は1600万もおり、三国時代の800万からほぼ倍増しておる。この800万弱と言うのは263年頃の魏と蜀の人数がベースであり、ここには魏の屯田民はカウントされておらんのじゃよ。

つまり平和な世になったことによる増加分もあるじゃろうが、三国時代から晋への移行で人口が倍増したのは、この屯田民が戸籍へ組み込まれたことによる増加分が相当あったんではなかろうか。

魏の人口は443万ほどと言われておった(蜀は94万)のじゃが、仮に屯田民が倍以上おったと仮定すると、曹操が行った屯田民の施策がいかに優れて、人を集めるのに成功したか、と言うのを間接的に示していると思われるんじゃ。

しかも屯田の税率は上記のように一般の郡県民よりもはるかに高い。そう考えると魏の国力は更に大きかったと考えられるのう。

棗祇等屯田を進言した人物、そしてそれを採用した曹操の先見性の高さ、非常に時宜に適った施策と言えよう。これ一つとっても曹操が非常に優れた政治家と言えることがわかるのう。

長くなってしまったので、今回は雑談はなしじゃな。曹操はなかなか語りつくせんのう。

 

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