三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹操(そうそう) 字:孟徳(155~220)その3

さて、曹操紹介3回目じゃな。

1回目は軍歴、2回目は徐州征討について書いたが、このままのペースではいつ終わるか分らんので、もう少しギアを上げていきたいのう。じゃが語りたいことも多数ある。悩ましい話じゃ。今回は他の有名な戦役にて、曹操の才知を見ていくとしようかのう。

曹操紹介その1(戦歴)

曹操紹介その2(徐州虐殺?編)

曹操紹介その4(その他戦役編)

曹操紹介その5(屯田制)

曹操紹介その6(兵戸制・求賢令)

曹操紹介その7(政治・文学篇)

曹操紹介その8(その他・小ネタ編)

曹操紹介その9(遺令・能力評価等)

 

軍事内容紹介

さて、昨夜は一つの戦役の説明しかできず、すまんかったのう。

仕方ありませんよ。私みたいに演義しか知らなくても曹操の複雑な魅力と言うのは何となくわかりますから。

そう言えばお主は吉川三国志を読んだんじゃったな。確かに吉川氏は三国志演義をベースとしながらも、曹操の人間的魅力に取りつかれておったらしいからのう。

それで私も何となく惹かれたのですかねえ。書き手の思いが伝わるのってちょっと面白いですね。そう言えば前回の徐州征伐編で史書の中に魏武注孫子ってありましたよね。あれは有名な孫子のことですよね?

そうじゃ、魏の武帝曹操のこと)が注釈した孫子、それが魏武注孫子じゃ。実は孫子に注釈を付けたのは曹操だけではないんじゃ。『十一家注孫子』で検索をかけると、曹操以外にも孫子に注釈を付けた人物は多数おるんじゃ。

十一家と言うことは11人いるということですか?

うむ、そしてその中でも曹操の注釈がとりわけ優れている・・・訳ではなく、曹操の注釈は簡潔すぎるらしいんじゃ。『十一家注孫子』の一人である杜牧は「十のうち一も解説していない」と嘆いているんじゃよ。この辺りは『曹操 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像(山川出版社)』に詳細が書かれておるぞい。

曹操についてはこの書物をベースに今後は紹介を行っていくぞい。さて、杜牧は上記のように批判し、彼自身はいろんな戦史を引用した注釈書になっておるらしい。

曹操の注釈って具体的にはどんな感じなんでしょうか?

そうじゃな、お主風林火山は知っておるかの?

武田信玄の旗印に書かれてたものですよね、疾きこと風の如く~とかですよね。

うむ、曹操の注釈は「疾きこと風の如く(何もないところから攻めること)、徐かなること林の如く(利を見せないこと)、侵掠すること火の如く(速いさまであること)、動かざること山の如く(守ること)・・・」と言う感じじゃな。()の中が曹操の注釈じゃ。

う、うーん、思った以上に簡潔、と言うか単に語句の説明なだけなんですね?

そうじゃ、これでは全然戦術の説明になっておらん。まさに杜牧の言う十の内一も説明しておらん、と言う話じゃな。じゃがワシはこれで十分じゃと思うんじゃよ。

??どういうことでしょうか。

うむ、じゃあその辺り、曹操の戦史を紐解き、見ていくこととするかのう。と言うかまた長くなりそうじゃのう、ほっほっほ。

軍事行動

注釈に残る曹操の戦史1

さて、曹操の注釈が簡潔にすぎる、と言うことは書かれておるが、例外的にいくつか、曹操自身の戦闘に関する記述が書かれた箇所があるんじゃ。一つは先に紹介した徐州征伐のおりじゃ。

孫子』の九変篇の「城には攻めざるところがある」と言う文章に対する注釈で「城が小さくかつ堅固で、備蓄も豊富ならば、攻めてはならない。私(曹操)が華県と費県を捨ておいて深く徐州に入り十四県を得た所以である。」

つまり華県と費県は守りが固く攻めてはいけない城であり、そう判断した曹操はそのままその二県の城を捨て置いたことで十四城を得る、という成果を得た、と言うことじゃな。

この辺りも本当に徐州虐殺と言われるようなものがあったのか、疑問に思う所以じゃな。もし虐殺をして後ろめたい思いがあれば、ただでさえ己の戦史を孫子の注釈に書かない曹操が書いたりしない気もするんじゃな。

少なくとも曹操自身には虐殺した、と言うような後ろめたい意識は全くなかったように思うのう。そして虐殺自身の真相は分からんが、この曹操自身の注釈があることで、曹操が徐州の十余城を落とした、と言う記録は真実だったんじゃろうな。

注釈に残る曹操の戦史2

曹操孫子の注釈として己の戦史を記述した箇所がもう一つあるんじゃ。それは孫子の謀攻篇「用兵の法は(彼我の兵力差が)十倍であれば、これを囲む」とあるんじゃが、それに対し曹操は「十倍の兵力でこれを包囲せよ、と言うのは、将の知勇が等しく、兵の強弱が等しい場合のことある。もし守り手が弱く攻め手が強ければ(包囲するのに十倍もいらない。私(曹操)が二倍程度の兵で以て、下邳にて呂布を生け捕りにした所以である。」

ここで前述の杜牧が反論をするんじゃな。「包囲と言うのは城の四方から囲まないといけないのだから、二倍程度ではとてもできるものではない。」と、じゃがこの辺りが実戦経験がない文人杜牧の限界なんじゃろうな。

そもそも孫子兵法書と言うのは囲碁や将棋で言う定石に近く、いやもっと言えば定石を英訳したスタンダードスタティック(基本戦術)の方が意味が伝わりやすいじゃろうか。基本ではあっても全てではない。基本は知っていることが当然として、そこからどう応用していくのか、それこそが将の神髄であって、基本がこうだから、で思考が膠着してしまっては、常に情勢が変化する戦場で勝ちを拾うことなど到底不可能じゃろう。

この時曹操は周辺の河川を氾濫させて、下邳周辺に流し込み、城を水攻めにしたんじゃな。呂布自慢の騎馬も使えなくなり、水の中に城が孤立しておる訳じゃから、逃げようとしてもすぐにばれてしまう。こうして逃げることも攻めることもままならい状態にすることで曹操は二倍程度の兵力でも易々と包囲できる状況を作り出したわけじゃな。

孫子を実戦で生かし続けた曹操の凄みが出た場面と言えよう。

 

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雑談ぢゃ

さて、孫子の兵法を利用した曹操の戦ぶりじゃな。

何となくこれはわかる気がします。過去の記事でも張郃が官渡で烏巣を救援に向かわないと、と言うのを郭図が否定しているのと似た構図ですよね。

そうじゃ、相手と味方の力量、そして情勢を判断したうえでどの戦術を採択するのがベストか、それをきちんと見極め、実戦で使うことができてこその戦術じゃ。

野球とかでも、同じ点差とか似たような場面でも、序盤、中盤、終盤で戦い方が変わったりしますもんね。

むむ、良く分っておるのう。そうじゃ、野球やサッカーでもそうじゃが、同じ点差でも敵味方の守備、攻撃陣の状態、控えの人数や状態等で打てる手は常に変わってくる。全く同じ場面と言うものは無いもんじゃ。指揮官はその中で最善と思える手を打たねばならん。

それにしても解説だと師匠色々言えてますが、実践では全く生かせないんですねw

一言多い奴じゃwじゃがまあその通りじゃな。所詮ワシの言ってることは、後出しじゃんけんにすぎん。結果が分かった上での話じゃから、いくらでも都合良く言えてるだけじゃ。

英雄は酒場に行けばいくらでもいる、と言うヤツですねw

英伝か、あれも面白い話じゃのう。三国志14でもコラボしておるし、武将データを見比べながらニヤニヤしておるぞい。

相変わらず・・・まあ師匠ですから仕方ありませんね。さて、だいぶ文字数が厳しくなってきたので今回はここまでですか?

そうじゃな、戦史については次で最後としたいのう。

分かりました、次も見てくださいね、それではまたです。

 

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