さて、曹操紹介4回目じゃな。
今回は3回目まで語った以外の戦役における曹操の才知が良く分る内容を簡単にまとめていくとしようかの。戦闘面は今回で最後とするぞい。
軍事内容紹介
さて、今回は孫子等にも載っていないような曹操の戦闘記憶を語るとしようかの。
だいぶ長くなっていますから、この辺りでピシッと終わらせたいですね。
そうじゃな、それでは早速行くとしようかの。
軍事行動
張繍・劉表との戦い(安衆)
曹操が張繍を攻めて、襄を包囲した時じゃ。劉表が援軍にきて軍の背後を絶ったんじゃよ。この時曹操は荀彧に手紙を送り、「賊がわしを追いかけてくる。一日に数里を行軍するだけだが、わしは推断する。安衆に到着すれば、間違いなく張繍を打ち破る。」
安衆に到着すると張繍と劉表の軍勢が合流し、曹操は前後に敵を受けたんじゃよ。
しかし曹操は上手く地下道を作り輜重を通した上で、奇襲の部隊を伏せておいたんじゃ。兵がごっそり減ったことで張繍軍と劉表軍は曹操が逃げたと思い、追撃をかけてきたんじゃ。
そこで地下道を通って逃げたように見せた部隊と、あらかじめ伏せておいた奇襲部隊で挟撃し、大いに破ったんじゃ。しかもこれだけではない。
荀彧が「手紙で敵軍を必ず破れると予測されたのは何故でしょうか?」と聞くと曹操は「敵は我が軍を遮って、逆に我が軍を必死な状況に追い込んだ。それ故わしは勝利を予知したんじゃ。」
韓信とかも使った、俗に言う背水の陣じゃな。背水の陣は下手をすると自軍の崩壊を招きかねない、諸刃の剣のような戦術であり、使いどころが非常に難しいんじゃ。じゃが自軍のピンチを逆に士気を上げる方向でうまく活用した。ただの戦術家ではない、曹操の指揮官としての才が良く分るエピソードと言えるじゃろう。
袁紹との戦い(官渡)
曹操と袁紹の戦いじゃが、官渡城での戦いは基本袁紹が攻め、曹操が守るという図式じゃった。袁紹は櫓を組み立て、その櫓から場内に大量の矢を射ち込んだんじゃ。これにより、曹操軍は盾を頭に被らないと歩けないほどじゃったという。じゃが曹操もやられっぱなしではない。
自ら発石車と言う大石を飛ばす兵器の図面を引き、これにより袁紹軍の櫓を次々と破壊していったんじゃ。自ら兵器の図面を引く辺り、大したもんじゃのう。袁紹軍ではこれを「霹靂車」と呼んでおったようじゃ。石が櫓に当たる時に雷が鳴るような大きな音がすることから名づけられたんじゃろう。
さて、櫓が破壊された袁紹は地下道を掘り、城内へ侵攻しようとするんじゃ。これは対公孫瓚戦の時にも使っており、徐々に内側へ侵攻し、城壁を無力化させて公孫瓚を滅ぼすことに成功しておるんじゃよ。日本でも戦国時代に武田信玄が金山衆と言う鉱夫を使い、同じように地下からの攻略に活用しておった、きわめて有効な戦術なんじゃ。
じゃがこれも曹操は素早く対応し、城壁と平行する塹壕を城壁の内側に掘ったんじゃ。こうすることで地下道を進む連中はどこかで必ず塹壕に突き当たってしまう。塹壕にぶち当たった部隊はそこでツミじゃな。城内の部隊からの的になるしかない。そこまでやらんでも、塹壕に水を引き入れることができれば、侵攻軍は皆溺れるしかない。
それでも時間をかければ、いつかは曹操も危機的状況に陥ったであろうな。そして何となくじゃが、この時攻城指揮を執っておったのが張郃かもしれんのう。元々張郃は公孫瓚討伐で大きな功績をあげておる。公孫瓚との戦い前半活躍しておったのは麹義であり、張郃が大きく活躍できる場となると後半の攻城戦ではないか、と思うんじゃよ。更に最後烏巣焼き討ちの時に張郃に攻城を命じたのは単に元々張郃がその指揮を執っておったから(迂闊と言えば迂闊かもしれんが)と考えれば、納得いかんこともないんじゃよ。
馬超との戦い(潼関)
孫子には書かれていないが、この時の戦いは非常によく考えられておるんじゃよ。曹操は潼関で馬超と対峙している間、ひそかに徐晃と朱霊を北へ送り、二人はそこから黄河の西を攻めさせて、拠点を築かせたんじゃ。
丁度この辺りの黄河は、最初北から南へ流れていたものが、その流れの方向を大きく変え、東から西へ流れるように折れ曲がっておる場所なんじゃ。曹操達は丁度東西に流れておる黄河の南に位置しておる。そして馬超たちが西へ向かう関所を抑えている以上、曹操達が西へ向かおうと思えば、一度南から北に黄河を渡り、その後さらに東から西へ黄河をもう一度渡らねばならない。
じゃが曹操達が先に黄河を北へ渡ってしまえば、そこから西へ渡河されるのを防ぐため、馬超たちは黄河の津(みなと)を抑えてしまうじゃろう。そうなると曹操達は西へ渡る術を失ってしまうんじゃ。
そこで曹操は自らを囮に使い、馬超たち全軍を潼関に引き付けておき、徐晃達に黄河の西に橋頭保を築かせておったんじゃ。
更に曹操は馬超たちの要求に表向き承知した上で連中の油断を誘い、備えを設けさせないように仕向けた上で一気に連中を攻撃し、打ち破ったんじゃ。曹操はこの戦い方を「急な雷鳴は耳を覆ういとまもない」と表現したんじゃが、これは六韜と言う孫子とはまた別の兵書に書かれておる言葉じゃな。このように曹操は孫子だけでなく、他の書物も読み、常に研鑽を怠らないようにしておったのじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、曹操の特徴的な戦闘記録じゃな、何とか戦闘に関しては終わりそうじゃ。
前回の孫子でも書いていた、戦術をいつどのように使うのか、と言うのを非常にうまく使いこなしているんですね。
そうじゃな、孫子の一節に「兵は詭道である、ゆえに強くとも弱く見せかけ、勇敢でも臆病に見せかけ、近いものを遠いかのように見せかけ、遠いものを近いかのように見せかける。(中略)その備えなきところを攻め、その不意を衝く。これが兵家の言う「勢」であって、あらかじめ伝えることはできないのである。」と書かれておる。
要するに騙し合い、と言うことですね。そして相手の不意を如何に突くか、が重要と言うことですね。
そうじゃ、言葉にするだけなら簡単じゃが、これを実際に状況を見ながら利用するのはなかなか難しい。曹操はそういう機を見るに敏、と言う面において名人級の人物と言えるじゃろうな。
それにしても曹操はそれだけすごかったのに、何故天下統一まで届かなかったのでしょうか?
そうじゃな、色々理由はあるが、一つは年齢的なものじゃろうな。例えば今紹介している191年当時で既に曹操は37歳、官渡の戦いの時には46歳、赤壁では54歳じゃ。
思ったよりも結構年齢行ってますね。赤壁でまだ40台ぐらいのイメージがありましたが・・・。
うむ、多分赤壁の時点で40、それも前半であればもう一度天下統一へのチャンスはあったと思う。じゃがいくら曹操と言えども50半ばからの立て直しは難しい。
赤壁で負けたことで天下への道が一気に遠くなった、と言うことですか?
そうじゃな、赤壁時点で50半ばじゃと、いくら曹操と言えども、好むと好まざるとに関わらず、次の世代のための体制を作っていかなければいけない。
なるほど、体制作りに時間が取られてしまうために、更に天下統一への道が遠くなる、と言うことですね。
うむ、実際漢中を攻め取った時に司馬懿や劉曄がそのまま蜀取りを進言しておるんじゃ。じゃが曹操は魏王に就任するため、軍を引き返さざるを得んかった。これは次代を見据えての体制固めのためじゃったと言えよう。こう言うことが必要ない40前後であれば、そのまま蜀に攻め入っておったのではなかろうか。
漢中を取った時にはもう60台じゃからな。上のような理由もあったろうが、本人の気力的にそこから更に蜀への侵攻と言うのが体力的にも気力的にもきつかった、と言うのもあるのではなかろうか。
曹操にしては珍しい消極的な行動ですもんね。確かにちょっとらしくない、と言う印象はありますね。
まあそれ以外にも理由はあるがの、その辺りは次に説明するとしようかの。それでは今回はここまでじゃな、次もよろしく頼むぞい。
分かりました、次もよろしくお願いしますね。