さて、今回は曹桓の紹介じゃな。とは言っても知らない人も多いじゃろう。彼は曹操のひ孫にあたる人物なので無理もないじゃろう。他にどんな姻戚関係があるか、見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹桓の紹介じゃな。曹操のひ孫世代で、先に紹介した曹壱の子に当たる人物じゃな。
曹壱は曹賛の弟でしたよね。この辺りの情報は記憶から消えていくのも早いなあ。
兄の曹賛が曹玹の後を継ぐが、曹賛も早くに亡くなったことで、曹壱にお鉢が回ってきた、と言うことだったな。
曹桓については情報が少なそうじゃが、また能力評価から見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
魏志『済陽懐王玹伝』を見ていくと、次のように書かれているんじゃ。
済陽の懐王曹玹は建安十八年(211年)、西郷侯に取り立てられた。
早死にして、子がなかった。二十年(215年)沛王曹林の子の曹賛に曹玹の爵位と領国を継がせた。
最初は曹玹に関する記述ですね。
そうじゃな、じゃが、曹賛も亡くなり、弟の曹壱が後を継ぐこととなった、曹壱が亡くなった後の記述は次の通りじゃな。
曹壱は亡くなると、悼公の諡号を贈られ、子の曹桓が後を継いだ。景初・正元・景元の間に何度も加増され、前と合わせて千九百戸となった。
景元は260~264年の期間だから、魏末期の話だな。
皇族たちにしてみれば魏が無くなると言うのは一大事だったと思うのですが、何もできなかったんですね。
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簡単解説
さすがに他の作品には出てきていないですね。
知名度が低いから仕方があるまい能力も軍事や統率が少し抑え気味になっているのは、代を経るごとに文弱になっていってると言う印象からか。
そうじゃな。まあ記述がないから本当にこの辺りは想像じゃな。さて曹桓については以上の通りじゃな。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとするか。
師匠も何だかんだで情に脆いタイプなんですねえ。ともあれ張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。