三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹賛(そうさん)2 字:不明(?~?)

さて、今回はもう一人の曹賛の紹介じゃな。彼は曹操武帝)―曹均(樊安公)―曹敏(瑯邪王)と来て、曹敏の息子に当たる人物じゃな。さて、もう一人の曹賛について見ていくとしようかのう。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹賛の紹介じゃな。上でも書いているように曹操の孫である曹敏の息子に当たる人物じゃな。

彼は文帝の子である曹蕤殿の後を継いだ人物だな。

あ、系図が少し変わってくるのですか。

そうじゃな、今まで紹介してきたのは多くが曹操の息子の系図を継いだ人物が多かったからのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 曹賛(20歳)  40 35 30 45
 ↓ ↓ ↓ 
 曹賛(45歳)  68 62 57 73

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀・政治

魏志『北海悼王蕤伝』を見ていくと、次のように書かれているんじゃ。

北海の悼王曹蕤は、青龍元年(233年)、逝去した。

二年(234年)、瑯邪王(曹敏)の子の曹賛に曹蕤の後を継がせ、昌郷侯に取り立てた。景初二年(238年)饒安王に立てられ、正始七年(246年)文安に国替えされた。正元・景元の間に何度も加増され、前と合わせて三千五百戸となった。

曹賛の記録はこれだけじゃな。

もう一人の曹賛と比較すると少し政治が高いですね。 

曹操の子孫であるのは同じだが、文帝の系列を継いだと言うことで、能力を文帝寄りにしたのであろう。 

 

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簡単解説

こちらの曹賛も他の作品には出てこないですね。

まあこればっかりは仕方ないな。この辺りのマイナー武将を出すとなると、本当に数千人の武将を作り出さないといけないからな。

まあ曹丕よりとは言え、曹丕とは直接の血縁関係がないのがネックじゃがな。そろそろこちらも品切れなんじゃ。さて曹賛については以上じゃな。次もよろしく頼むぞい。

よし、それでは今日のところは俺も帰るとするか。  

張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。