三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹峻(そうしゅん) 字:子安(?~259)

さて、今回は曹峻の紹介じゃな。曹操の息子の一人で、兄弟に曹玹がいるんじゃよ。母親は秦夫人じゃな。彼は記録の少ない皇族の中では没年や字の残っている、少し珍しい人物じゃな。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹峻の紹介じゃな。彼は曹操の息子であり、曹玹と母が同じ人物じゃな。

史書における並びは曹玹殿の方が先であることから、恐らく曹玹殿の方が兄であるのだろうな。

息子の曹澳も少し前に紹介していましたよね。

関連人物の記事も載せておくので良ければご覧くだされ。それでは能力評価から見ていくとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 曹峻(20歳)  65 40 55 50
 ↓ ↓ ↓ 
 曹峻(45歳)  95 68 84 79

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀・政治

魏志『陳留恭王峻伝』を見ていくと、次のように書かれているんじゃ。

陳留の恭王曹峻は字を子安と言い、建安二十一年(216年)、郿侯に取り立てられ、二十二年(217年)襄邑に国替えされた。

黄初二年(221年)、公に爵位が昇進し、三年(222年)、陳留王となった。

五年(224年)改めて襄邑県王とされたが、六年(225年)、また陳留王に任ぜられた。

甘露四年(259年)、逝去し、子の曹澳が後を継いだ。

彼に関する記述はほぼこれだけじゃな。

記録は少ないですが結構長生きされた方だったんですね。 

兄の曹玹が211年から215年の間に、恐らく未成年で亡くなっていることを考えると、亡くなった時点で50歳は超えていそうだから、確かに丞相の息子の中では長生きした方になるのか。 

 

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簡単解説

実績がないから抑えめではありますが、その中では全体的に能力が高めなのは長寿だったからなんでしょうか。

そうだとは思うが、今までもそれをきちんと適用していたか、となるとどうなんだ?

う、ちょっとその辺りは曖昧かもしれん。まあ今回は字や没年もはっきりしている、と言うことも加味した、と言うことで容赦してくれい。さて曹峻については以上じゃな。次もよろしく頼むぞい。

よし、それでは俺も帰るとするか。  

張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。