さて、今回は曹壱の紹介じゃな。彼もまた曹操の孫であり、曹林の息子なんじゃ。前回曹澳の所で少し話をした杜夫人、秦夫人どちらにも関係のある人物なんじゃよ。
さて、今回は曹壱の紹介じゃな。彼もまた曹操の孫の一人じゃ。
どうも張郃だ。彼は曹林の息子であり、曹緯の弟に当たる人物だな。
曹緯の兄弟と言うことは杜夫人の系譜ですよね。秦夫人との繋がりが見えてこないですね。
ふむ、秦夫人には曹峻の兄に曹玹と言う人物がいるのだが、彼が早死にし、後を継ぐ者がいなかったので、養子をとる形となったんじゃな。
そこで曹壱が養子となったんじゃが、そこにも少し経緯があるんじゃな。それでは曹壱について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
魏志『済陽懐王玹伝』によると、曹玹は西郷侯に取り立てられたんじゃが、早死にして子もなかったんじゃよ。そこで建安二十年(215年)に沛王曹林の子の曹賛に、曹玹の爵位と領国を継がせたんじゃ。
あれ、曹壱じゃないのですね。
まあ、続きがあるからそれを見ればわかるぞ。
さて、後を継いだ曹賛なんじゃが、彼もまた早死にし子がなかったんじゃ。そこで曹賛の弟の曹壱に曹玹の後を継がせたんじゃよ。221年に済陽侯に任じられたんじゃよ。
なるほど、本来なら兄の曹賛が曹玹の祭祀を継ぐところが、彼も早くに亡くなったので曹壱にお鉢が回ってきたと言うことなのですね。
そうだな、そして彼も他に記録がほとんどないことから、能力も抑えめな感じになっていると言うことだな。
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簡単解説
先日話を振った時は、こういう関連性があるとはさすがに思いませんでした。
そうだな、二人も後継ぎとして赴いていると言うことは、杜夫人と秦夫人との関係がそれなりに良好だったのかもしれないな。
そう言われるとそうかもしれんのう。さて、曹壱の紹介はここまでじゃな。
よし、今日はこれで終わりだな。それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。