さて、今回紹介するのは華表じゃな。華表の名前は今までも何度か出てきておるが、華歆の長男じゃな。華歆の後継者として、立派に一族を率いた、彼もまた非常に優秀な人物だったようじゃのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は華表の紹介じゃな。彼は華歆の息子の一人で長男だったわけじゃな。華歆の一族の中でも一番優秀だったのではなかろうか。
今までの中では華澹が一番政治に優れた評価になっていましたが、それを超えると言うことですか。
記録を見る限り、華表殿が一番記述も豊富であるし、晋書の方にも立伝されているようだから、評価が高くなるのもうなずける話だな。
晋書の細かい記録までは分からんが、三国志側でもそれなりに記録が残っているからのう。それでは華表について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
華表に関しては『華歆伝』の裴松之の注釈の方に詳細の記述があるようじゃな。
華表は字を偉容と言い、20余歳で散騎侍郎となった。当時同僚の諸郎と共に尚書の事務を担当した。同僚たちは年少であったから、いずれも互いにしのぎを削り、名声栄誉を追い求めた。
尚書の仕事が回ってきて、文書の中に不都合な部分がある場合、故意にうっかりしたふりをして見過ごしておき、伝達者が行ってしまうと早速仕事にかかり、内容に立ち入って反対論を述べた。
ただ華表だけはそうでなく、仕事が回ってきてその中に不都合な点があれば、その都度尚書と議論を共にし、その考えを十分に申し立てた。担当者が固執してやむを得ない場合、はじめて共同で意見書を具申した。司徒の陳羣らはこのことにより彼を称えた。
晋に仕え、太子小傅・太常を歴任したが、病気を理由に辞職し、光禄大夫に任命された。性格は清廉潔白で、常に公的な引退理念を頭においていた。
司徒の李胤、司隷の王弘らは常に称賛していった。
「このような人物は、貴い身分にしようとしてもできないし、賤しい身分にしようとしてもできない。(近しい間柄にしようとしてもできないし)、蘇円にしようとしてもできない。」(『華歆伝』裴注『譜叙』)
尚書時代にきちんとつじつまの合わない部分は議論を重ね、考えを申し立てたことから、彼の慎重で、細かい部分にもきちんと目を通す几帳面な性格であることが伝わってくるな。
他の人たちが見なかったことにしていることを考えると、生真面目だったことが伺えますね。
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簡単解説
あら、結構記録は残っているのに、他の作品には出ていないのですね。天舞三国志辺りには出ていそうに思ったのですが・・・。
今までの人物で登場している、していないで考えた時に、正史本文にどれだけ出ているか、が基準になっているように思えるな。
例えば先日紹介した王粛は王朗伝に附伝される形で、本伝中にしっかり記録が残っている、それに対して今日の華表殿は裴松之の注釈がほとんどだ。他の人物もそう言う傾向はあったと思われる。
なるほど、そう言われてみると思い当たる節はあるのう。たまにこれだけの記述があるのに、他の作品で出ていないのは何故じゃろうと思っていたのは、本伝に載っていたかどうかの違いも大きそうじゃな。
さて、魏と言うより晋の時代に名を残した華表の紹介はここまでじゃな。次もまたよろしく頼むぞい。
よし、それでは自分も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。