三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

陸遜(りくそん) 字:伯言(183~245)その4

さて、今回陸遜の4回目の紹介じゃな。今回は夷陵の戦いの時系列を陸遜陣営、劉備陣営双方の記述から見ていくとしようかのう。

 

目次

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は夷陵の戦い、続きについて見ていこうと思おうかのう

劉備側と陸遜側で記述が違うこととかあるでしょうか。

いや、基本的な部分は同じであろう。ただ細かい部分での違いはあるであろうから、その辺りを比較する形であるかな。 

それでは早速夷陵の戦い、続きを見ていくとしよう。

人物紹介 

夷陵の戦い(序盤、各陣営の記録)

さて、それでは地図を元に、それぞれの陣営の記録を見ていくとしよう。

夷陵の戦い

章武元年(221年)最初、先主は孫権関羽を襲撃したのを怒り、東征に向かわんとし、秋七月、諸軍を統率して呉討伐に向かった。

孫権は手紙を送って和睦を請うたが、先主は激怒していて許さなかった。

呉の将軍陸議(陸遜)・李異・劉阿らは巫・秭帰に駐屯していたが、(先主側の)呉班馮習は巫を出て李異らを攻撃して破り、(先主)軍は秭帰に駐留した。(『先主伝』)

この時陸遜は陸議と呼ばれていたのですね。それにしても、初戦で陸遜も敗れているのですか? 

どうかな。呉書の前後の記録を見る限り、陸遜は宜都(上の地図では夷道)にいた可能性が高い。元々陸遜配下の将として彼らは配置していたことから、陸遜も一緒に書かれたのではないだろうか。実際の陸遜伝の方も見てみるとしよう。

黄武元年(222年)劉備が大軍を率いて西方の国境地帯へ押し寄せてくると、孫権陸遜を大都督に任じ、仮節を授けて、朱然潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら五万人を指揮して、劉備の進出を食い止めさせた。(『陸遜伝』)

こちらは随分あっさりとした記述ですね。ただ確かに劉備に敗れたと言う記述は見られません。ですが敢えて記録を残していないのかもしれませんよね。 

上の図だけではわからんが、巫から夷陵の辺りまでは山岳地帯が多く、何かあった時に動きにくい。

夷陵から長江下流に向けて平野が広がっていることから、陸遜のような重鎮は身動きのとり易い夷陵以東に位置していた、と考えることが自然であろうな。

夷陵の戦い(中盤、周辺の動き)

夷陵の戦い

武陵・五谿の蛮族が使者を派遣してきて出兵を請うた。

章武二年(222年)春正月、先主の軍が秭帰に帰還し、将軍の呉班・陳式の水軍が夷陵に駐屯し、長江の東西の岸を差し挟んで陣取った。

二月、先主は秭帰から諸軍を率いて軍を進め、山に沿い嶺を横切って、夷道の猇亭に駐営した。佷山から武陵を通り、侍中の馬良をやって、(武陵の)五谿(武陵近辺の谿谷、異民族が集まって住んでいた)の蛮族を慰撫させたので、蛮族は全て相い率いて応じ、行動を起こした。(『先主伝』)

馬良がここで出てきましたね。武陵と言うと荊州の南の辺りですよね? 

丁度夷道(宜都)から西の長江南の地域が武陵だな。益州や交州とも接する地域だけあって、この辺りにも異民族は多くいる、ということだな。

そう言えば劉備が数百里も屯営を連ねた、と言う記述もあったと思いますがあれは本当なんでしょうか? 

猇亭は地理的に言うと、上の地図で言うと夷陵と夷道の中間付近、長江の東岸に位置する。上で少し書いたが、長江は夷陵の辺りまで山岳地帯だ。

人によってはそんなところに陣営を築けるはずがない、と否定することもあるようだが、劉備自身が秭帰から陸路を伝って猇亭に至っている。

軍が動かせる以上、そこに兵が駐屯できない理由にはならないと思うがな。

さて、この辺りの呉側の記録も見ておくとしようか。

黄武元年(222年)この歳、劉備が軍を率いて攻め寄せ、巫山や秭帰まで軍を進めると、そこから使者を遣って武陵の異民族達に蜀につくよう誘いかけ、仮の官印と割符を授け、爵位と恩賞とを約束した。

そのためこの一帯の諸県や五谿の民たちは呉に背いて蜀に付いた。(『呉主伝』)

劉備は巫峡・建平から夷陵に至るまでの地に互いに連なり合った営の群を作って、そこに数十の軍団を駐屯させると共に、黄金や錦を与え爵位や恩賞を約束して周辺の異民族達に味方に付くよう誘いをかけた。(『陸遜伝』)

こちらは『陸遜伝』と『呉主伝』(孫権の伝)両方の記述なのですね。 

馬良の名前こそ載っていないが記述の内容はほぼ『先主伝』と同じだな。

ここに屯営を連ねた記録が載っていましたね。

まあ巫からとなると、夷陵まで本当に数百里(300㎞以上)になる、さすがにその距離で屯営を築くと言うのは現実的ではないが、秭帰辺りからであれば、考えられなくはない。とは言えそれでも長すぎるがな。 

秭帰を物資の集積所にしていた感じですかね。それぐらいなら感じとしては行けそうな気がしますね。

うむ、とりあえず中盤までの動きは大体これで分かったじゃろうか。次はいよいよ夷陵の戦い、クライマックスじゃな。

 

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