三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

周瑜(しゅうゆ) 字:公瑾(175~210)その4

さて、随分と久しぶりじゃのう。今回は周瑜の紹介の続きじゃな。今回は周瑜の逸話について少しばかり見ていくとしようかのう。

 

目次

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

随分と長い休みとなったのう。いやいや申し訳ない。

実家に帰ったりしていたようですが、ゆっくり休めましたか?

いやあ、それが倉庫の中に眠っておる古いモノの整理を行って廃棄したり、日に焼けて痛んでいた障子紙を張り替えたりと、結構ハードだったんじゃよ。

あまりゆっくりとできた感じはないのう、お主はどうじゃった?

私は研究室にこもっていましたよ。学生はお金も大して持っていないですし、お盆と年末ぐらいしか帰れませんからね。

学生が地元に帰るのは、きちんと学問を修め、身を立てた時だからな。師匠とは立場が違うだろう。

そう言えば今回は周瑜の逸話、と言うことですが、赤壁回顧録でもするのですか?

それも良いが、周瑜の他人に対する観察眼などを示す逸話からまずは見ていこうと思うんじゃよ。戦史は地図とかの画像をまとめるので時間がかかるからのう。

人物紹介 

周瑜曹操

建安七年(202年)に曹操が勢力を伸ばしていた頃、曹操が書簡を下し、息子を人質として差し出すよう要求してきた。孫権周瑜一人を連れて母親の下に行き、母親のいる席で結論をつけようとした。周瑜は言った。

「~前略~

ただいま将軍様孫権の事)は、父上・兄上さまが残された成果を受け継ぎ、六つの郡の人民を一手に握られて、兵器は精鋭で兵糧も豊かに、武将も士卒も良く命令に従い、山を掘って銅を精錬し、海水を煮て塩を製し、領内は富裕で人臣も安定いたしておりますから、(一旦命令があれば)人々は船を浮かべ帆を上げて、その日の内にはせ参じてまいりまする。

兵士たちの気風は猛く勇敢で、向かう所敵はございません。」(『周瑜伝』裴注『江表伝』)

呉国内の情勢がよく分かる記述ですね。塩はやはり海水を煮詰めて作っているんですね。この辺りは時代を超えても同じですね。 

金属が銅の精錬に限られているのは少し気になるな。この時代は既に鉄製武器も出回っているからな。ともあれ、国内情勢に精通した記述なのは確かだな。

「~中略~

一度人質を送ってしまわれれば、曹氏と行動を共にせねばならず、行動を共にするとことになれば、招集がかけられたときに出てゆかねばならず、結局は他人の言うままになってしまうのでございます。

そうした時、最上のところ侯の印を一つ、従僕が十余人、車を数台、馬を数匹もらうばかりであって、南面して一国の主として振舞うと言った地位と、どうして比べ物になりましょう。

人質は送られず、ゆっくりと情勢の変化を見定められるのがよろしゅうございます。」(『周瑜伝』裴注『江表伝』)

周瑜の見識の高さをよく表した逸話であるが、この話にはいくつか疑問点があるのも事実だが分かるかな、一つは年齢だ。

年齢と言うと孫権の年齢ですよね。孫権の生年は182年ですから、202年二十歳ですか・・・ちょっと若すぎますかね? 

孫権の長男と言うのは記録上では209年の孫登になる。もちろんそれ以前に生まれて若くして亡くなった子もいるのかもしれんが、孫権の子と言うのが本当にいたのか、疑問は残るな。しかもさすがに乳飲み子を寄越せ、とは言わないだろう。

陳寿もその辺りの疑問を踏まえて、この江表伝の逸話は採用しなかったのかもしれないな。

さて、続けて劉備に関しても見ていくとしよう。

孫権周瑜

劉備が京までやってきて、孫権に目通りした際、周瑜は上疏していった。

劉備は梟雄としての資質を備え、しかも関羽張飛と言った勇猛無比の将を部下に持っております故、必ずやいつまでも人の下に屈し他人の命令に従ってはおらぬでしょう。

愚考いたしますに、遠い将来を見通して、劉備を呉に移し置かれ、彼のために盛大に宮殿を建てて、美女や愛玩物を多数集めてその耳目を楽しませてやり、一方では、関羽張飛との二人を分けて別々の地方に配置し、例えば私のような者が彼らを手足として使って戦いを進めれば、天下統一の大事業もその成功は確かなものとなります。」(『周瑜伝』)

ここでは関羽張飛を手足のように使う、と言う発言が重要だな。彼らを手足のように使う、と言える人物は同時代人でもごくわずかであろう。

それだけの自信が周瑜にはあった、そして周瑜のような司令官と関羽張飛のような一武官との立場の違いが明確になる話だな。

その辺りが統率力の高さとして評価されている、と言うことですね。 

魯粛関羽を叱り飛ばすなど胆力のある人物であったが、周瑜のように使いこなせるかと言うと、それは疑問符が残る。

それはその後の呂蒙陸遜にしても変わらんと思えるな。

確かに、関羽張飛を使いこなせる人物は多くはないじゃろうな。史実でも劉備ぐらいしかおらん訳やしな。

さて、そんなとこで、今回はここまでじゃな。次からは本格的に戦役での動きを見ていくとしようかのう。

じゃが、明日の晩からGWに突入するので、ちとブログの方はお休みじゃ。

次回は再来週頭ぐらいからになるが、それまでは過去の記事でも読んでお待ちくだされい。

 

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