さて、今回は曹休の戦績などについて見ていくとしようかのう。更に最後の敗戦について、いかにそこに導かれていったのか、そこについても考察していくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回曹休の戦績について見ていくとしようかのう。
実際、昨日の能力評価ですと、総合力で言うと関羽とほぼ同等ですものね。
そうだな、政治を含めた総合力では曹休殿の方に分があるが、純粋に将としての軍事、統率、知謀に関しては関羽の方が上回っている。ただそれだけ曹休の評価が高いのか、と思った人も多いのではなかろうか。
そうじゃな、それでは戦績の方を見ていくとしようかのう。
よろしくお願いします。
人物紹介
軍事面の実績
対呉蘭 〇 (下弁)
対張飛 〇 (不戦勝・固山)
対孫権 〇 (歴陽)
対孫権 〇 (蕪湖)
対呂範 〇 (洞浦)
対賀斉 △ (洞浦)
対孫呉 〇 (尋陽)
対審悳 〇 (皖)
対陸遜 × (石亭)
9戦 7勝1敗1分
およそ以上になるかのう。トータルの勝率は丁度7割7分8厘と言ったとこじゃな。実質、最後の石亭の戦い以外ではほぼ負けておらず、倒している相手も大物が多い。
それでは曹休の戦いについてピックアップしていくとしようかのう。
主な軍事内容
対審悳戦
曹休の一番目立つのはもちろん漢中において呉蘭を打ち破り、その後張飛を退散させた戦いじゃが、その後は主に対呉戦線で腕を振るうことになるんじゃよ。
魏志『曹休伝』を見ていくと222年から226年までに何度か呉と戦を行っており、幾度も戦果を挙げておったんじゃ。さて226年のことじゃ。呉の大将、審悳が皖に駐屯したことで、曹休はこれを攻撃して撃破し、審悳の首を斬ったんじゃよ。
すると、呉の大将の韓綜・翟丹らが相前後して軍勢を率いて、曹休の下に降伏してきたんじゃよ。
この時降伏してきた大将の一人、韓綜は呉の重鎮であった韓当の息子に当たる人物だ。これだけの人物も降伏してくる、呉も一枚岩ではないことをうかがわせる出来事と言えよう。
もしかして、この成功体験が、次の策略の際に判断を誤らせたかもしれない、と言うことですか。
そうだ、だがこれだけで曹休殿が騙される訳ではない。もう一つの決定的な情報があったのだ。
周魴の策略
さて、曹休を策略にはめたのは周魴であるのは、結構知られているのじゃが、この時の周魴はかなり周到に準備を行い、曹休を罠にはめて言っているんじゃよ。
呉志『周魴伝』を見ると、この時周魴は7つの書簡を用意し、身内の者に持たせて曹休に送っているんじゃ。
詳細な内容は省くが、言葉を尽くし、曹休に仕えたい旨のことが書かれているんじゃよ。
関羽を罠にはめる時の呂蒙や陸遜を思い出すな。あの時も陸遜は関羽に遜るような態度で接し、関羽を油断させることに成功している。
実はこれだけでなく、ちょうどこの時期、郡内がごたごたしており、しばしば中央から郎官が遣わされ、詔をもって諸般の事態について詰問がなされた、と言うんじゃな。
そしてこれに対して周魴は郡の役所の門のところまで出かけると、剃髪をして謝罪をしたんじゃよ。
現代の感覚で言うとピンと来ないかもしれないが、剃髪刑は漢代の頃は死罪に次ぐ重罪だったんじゃな。
そして、曹休はこの情報を得ていた、と言うんじゃよ。情報収集は基本じゃが、その情報自体が曹休を罠にはめるためのものだった、逆に言うと呉は曹休を倒すためにそこまで徹底的に罠を仕掛けた、と言うことなんじゃな。
なるほど、師匠や張郃さんが言いたいことがなんとなく分かりました。これって関羽の時よりももっと綿密に計画されたものだったのですね。
そう思えるな。だからこそお主の師匠はたとえ罠にはめられた、と言っても曹休の知謀を高く評価したのだろう。それだけの策を用いる価値のある相手、と言うことだな。
そう言うことじゃな。たった一度の敗戦ばかりがクローズアップされることで過小評価になってしまう人物も多いが、曹休もその一人ではないかと思うんじゃよ。
さて、曹休については大体以上じゃな。良ければ次もまた御覧くだされ。
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