さて、今回は周瑜の紹介の続き、今回は彼の主だった戦いについて、見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は周瑜の戦史について見ていくとしようかのう。
と言うと赤壁の戦いですか?
いや赤壁の戦いに関しては散々いろんなところで語られておるし、レッドクリフで映像化などもされておるからのう。
となるとそれ以外の戦い・・・何になるのでしょうか。
恐らくだが、曹仁殿との江陵攻防戦辺りが一番考えられそうだな。
なるほど、確かにその辺りの戦いって、断片的にしか見ていない気がしますね。
その時期は劉備が荊州南部を攻め取っておった時期じゃからな。そちらばかりクローズアップされがちなんじゃよ。
と言うことで、江陵の攻防戦、呉側と魏側両方の視点で見ていくとしようかのう。まずは魏側の視点じゃな。
人物紹介
江陵攻防戦(魏側視点1)
荊州平定の陣においては、曹仁を行征南将軍に任じ、江陵に駐屯させて、呉の周瑜に当たらせた。周瑜は数万の軍勢を率いて来攻した。初めにその先鋒隊数千人が到着した時、曹仁は城壁に昇ってこれを望見し、三百人の兵士を募り、部隊長牛金を派遣して、これを迎え撃って戦いを挑ませた。
多数の敵に対して牛金の兵数は僅かだったから、結局包囲されてしまった。
一緒に城壁にのぼっていた長史の陳矯ら側近の者は、今にも牛金らが殺されそうになっているのを見て真っ青になった。(『曹仁伝』)
これはいきなり形勢不利な状況ですね。
だが、この後が曹仁殿の真骨頂であるからな。続きを見ていくとしよう。
曹仁は憤怒の絶頂に達して、側近の者に馬を引けと命じた。陳矯らは一緒になって曹仁を引き留め、
「賊軍は数多く、勢い盛んです。対抗できません。たとえ数百人を見殺しにしたところが、何ほどの損害がありましょう。それを将軍御自ら出向かれるなどとは、言語道断です。」
と言った。曹仁は返事もせず、そのまま鎧をつけ馬に乗り、直属の勇士数十騎を率いて、城を後にした。賊軍から百歩あまりの地点に来て、堀に迫った。
陳矯らは曹仁が堀の側に留まって、牛金援助の形勢を示すと考えていたところが、曹仁はまっすぐ堀を渡って直進し、敵の包囲網に突入した。
牛金らはやっと脱出することができた。残りの軍兵がまだ包囲の中から脱出していないのを見ると、曹仁は直ちに取って返して再び突入し、牛金の兵士たちを救い出した。彼らの内数人を失ったが、賊の軍勢は退却した。
陳矯らは最初曹仁が出撃していくのを見た時、皆恐怖のために震え上がったが、曹仁が帰還した姿を見るに及んで、ため息をついて言った。
「将軍は本当に天上世界のお方だ。」(『曹仁伝』)
少数の兵で敵を撃退する、と言うのは武人の醍醐味・戦場の華ですね。
とは言え、この後も曹仁殿は結構な苦労を負っている。周瑜相手と言うのはそれだけ厳しいと言うことであろうな。
江陵攻防戦(魏側視点2)
劉備は周瑜と共に曹仁を江陵に包囲し、別に関羽に命じて北道を断ち切った。
李通は軍勢を引き連れてそれを攻撃し、馬から下りて逆茂木を引き抜き、包囲陣に突入した。戦いつつ前進し、曹仁の軍を救出した。武勇は諸将第一であった(『李通伝』)
こちらも武勇自慢の李通が出てきていますね。関羽を破る等曹仁と並んで個人の武が目立ちますね。
いずれの人物も古強者と呼ぶにふさわしい人物だからな。本来なら周瑜率いる軍の統率力・組織力で魏を撃退、といきたいところだが、それを個人の突出した武でひっくり返すわけだから大したものだ。
とは言え、最終的には曹仁も利なし、と言うことで退却する訳じゃからのう。と言うことで、次は周瑜達、呉陣営側の動きを見ていくとしようかのう。
今日のとこはここまでじゃな。
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