三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

孫晧(そんこう) 字:元宗(242~284)その2

さて、今回は孫晧の紹介2回目じゃな。彼は暴君として有名だが本当にそうなのか。気になる部分も多いことから、一度彼の記録をじっくりまとめてみたいと思うんじゃよ。

 

目次

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は孫晧の紹介2日目じゃな。今回は孫晧の良さを感じられる情報について、まとめてみるとしよう

うーん、でも本当に良い面とかあるんでしょうか。

それは実際の内容から判断していくしかあるまいな。 

そうじゃな。それは見てもらうしかないからのう。

人物紹介 

即位直後

孫晧は即位した当初、思いやりのある詔を発して士人や民衆たちの生活を憐れみ、官の倉庫を開いて貧乏な人々を救い、定めを決めて宮女たちを解放し、妻のない者たちに添わせてやり、御苑で飼われている鳥獣を逃がしてやった。

当時、人々は口をそろえて明君だと称えた。(『孫晧伝』裴注『江表伝』)

これは読んだことありますが、人気取りで最初だけだったんじゃないでしょうか。 

確かにそう見る向きもあるが、それでは次の内容を見るとしよう。

呉滅亡の日

呉の滅亡が迫っている時、孫晧は群臣たちに書簡を送って、次のように言った。

「私は不徳の身をもって、先帝様からの位を継ぎ、帝位にあること歴年に渡ったのであるが、政治教化は正しい道にもとり、その結果、人々を久しく塗炭の苦しみに落とし、ついには心を決めて(呉を見放し)有徳の者に生命を預けようとさせるまでに至った。

~中略~

皇宮に住まいするようになって以来、しばしば重い病にかかり、謀に対する配慮が不十分で、意図するところも的を外れて、政治をダメにすることばかりが多かった。

小人たちをそばに近づけたがために、残虐な行いが助長され、その害毒は広くひろがって、忠良な者達が被害を受けることとなった。

しかも愚昧にして私にはそのことが分からず、彼らの君臣の間を隔てる計略に乗せられて、諸君たちには申し訳ないことをしてきた。

~中略~

いま大いなる晋は、全世界を平定し、賢才ある者を取り立てることに心を砕いておる。これぞ英俊の士がその志を伸ばすべきときなのだ。管仲桓公と深刻な敵対関係にあったのであるが、桓公はその彼を用いた。

張良と陳平は、楚を去って漢の臣となった。乱れた国を去り治まった朝廷に仕えるのは不忠ではないのである。

王朝が改まり文物制度が変わったからと言って、自らの志を十分に伸ばさないことがあってはならない。諸君の今後の一層の努力と発展とを祝し、自愛を祈る。

これだけが私の申したいことだ、これで筆をおく。」(『孫晧伝』裴注『江表伝』)

さて、この孫晧の文章、非常に理知的で冷静、更に部下たちを思いやっていると思うがいかがかな

そうですね・・・少なくとも本当に暴虐で臣下を処刑しまくるような人物が書く文章ではないと思います。ただそうなると孫晧に暴君イメージがついた理由が分からなくなります。 

上の文を見ると皇宮で病気にかかったりしていることや、謀にやられていることもある。孫晧に正しい情報を入れず壟断していた人物、孫権の時代で言う呂壱のような人物がいた可能性が一つはあるだろうな。

後は孫権時代の魯粛諸葛瑾のような正確な情勢判断から助言ができる人物が少なかったこともあるだろう

後は孫晧自身に問題がなかった、とは言い切れんじゃろうな。

その辺りはまた次に情報を整理して見ていくとしようかのう。

 

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