三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

孫晧(そんこう) 字:元宗(242~284)その4

さて、今回は孫晧の紹介4回目じゃな。さて、今回は孫晧絡みで亡くなった人物について見ていき、そこに孫晧の残虐性が関連しているのか、見ていくとしようかのう。

 

目次

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は孫晧の紹介4回目じゃな。今回は孫晧の伝で亡くなった人物について精査していくこととしようかのう

孫晧の残虐性が実際のところどうだったのか、見ていくと言うことですね。

お主の師匠は少し孫晧をかばいたそうにも見えるが、さて実際はどうかな。 

いやいや、そこはなるべく私情を介入はさせないようにと思っておるぞい。

人物紹介 

濮陽興と張布

万彧の勧めにより、濮陽興と張布は孫晧を帝位に就けるも、ある時万彧が濮陽興と張布は陛下を即位させたことを後悔しておりますと讒言され、その結果誅殺される。

徐紹

呉の寿春城を守り、魏に降った徐紹は呉に降伏するよう使者として呉に赴き、その後魏に帰る途中、召し還されて誅殺された。以前に徐紹が中原(魏)を称賛していると上言した者があったからである。

朱皇后及び息子の二人

孫晧は前皇帝孫休の皇后であった朱氏を追い詰めて殺害した。

加えて孫休の四人の息子を護送して呉の小城に閉じ込め、その後まもなくその内の年長の者二人を殺害した。

王蕃

当時王蕃と官を並べていた万彧及び中書丞の陳声はしばしば王蕃を貶める讒言を行った。誇り高い気質の王蕃は主君の顔色を窺うようなことはできずに、孫晧から厳しく処遇されるようになり、最後は宴会の席上で孫晧に命じられた側近の手によって斬られる。

楼玄

立派な人格者と言うことで、殿中の諸事を司ることになるが、対応が歯に布を着せぬものであったため、次第に孫晧との間に軋轢が生じ、広州に送られる。

現地の部将の張奕に楼玄を殺害させるよう勅書を送るも、人格者であった楼玄に心酔した張奕は実行できなかった。勅書のことを知った楼玄は自ら毒を仰ぎ自殺した。

賀邵

驕る孫晧を諫めるも、孫晧は逆に不愉快になる。また賀邵の正しい道を曲げようとしない性格は、孫晧の取り巻きたちに嫌がられ、彼らは共謀して、賀邵は楼玄と共に国家を誹謗していると讒言される。

賀邵は一旦許されるものの、後に病気を理由に(本当は働けるのに)引退したのではと疑われ、誅殺された。

韋曜

学問を好み、優れた文章が書け、『呉書』の撰述に当たっていた人物。

孫晧のお気に入りであったが、やがて寵愛が衰えると、自分の命令が聴けず、主君に真心を尽くそうとしておらぬのだとして捕縛され、最後は誅殺された。

さて、実はまだ語りつくせていないのであるが一旦はここまでにしておこうか。

これでまだ終わっていないんですか・・・いや、酷いと言うしかないと思うのですが。 

まあ、結果だけで判断してはいけない。韋曜のように最初は寵愛を受けていた者もいるのだ。検証が必要であろう。

他に誅殺された人物たちの情報ももう少し洗い出し、そこに至る経緯を検証せねばならんからのう。

胸クソ悪く感じる人もいるかもしれんが、もう少しお付き合いくだされ。

 

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