三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

孫晧(そんこう) 字:元宗(242~284)その3

さて、今回は孫晧の紹介3回目じゃな。さて、当初は彼が暴君として語られる要因として見ていこうとしたんじゃが、もう少し彼の善良と思われる人物像の部分について見ていくとしようかのう。

 

目次

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は孫晧の紹介3回目じゃな。今回もまだ孫晧の良さを感じられる部分が見て取れたので、そこをまとめてみるとしよう

毎度結構行き当たりばったりなところがありますが、今回は本当に情報が整理できていないのですね。

それだけ孫晧と言う人物が難しい、と言うことであろうな。 

申し訳ない。それでは早速見て言うとしようかのう。

人物紹介 

魏への使者

魏は、かつて呉の寿春城を守っていて魏に降った武将の徐紹と孫彧とを使者として、命令を授け手紙を持たせて呉に派遣し、時勢の成り行きを説いて、降伏するようにと孫晧に勧告させた。

甘露元年(265年)孫晧は使者を送り、徐紹と孫彧とに同伴して魏に赴いて返書をさせた。(『孫晧伝』)

紀陟と弘璆とは使者の役目を仰せつかって魏に赴いた。

都に着くと魏帝が彼らを引見し、接待役を通じて尋ねた。

「こちらに来られる際、呉王のご様子は如何であったか。」

紀陟が答えた。

「こちらに参ります際には、皇帝は親しく軒まで出御され、百官たちがお側に控えて、お食事も良く進まれるようでございました。」(『孫晧伝』裴注『晋紀』)

使者に対してわざわざ出御されるって、かなり目をかけていた感じですね。 

紀陟は孫晧の父孫和が孫峻に睨まれた時に、彼をうまく助けたりしたからな。才能もあったのであろうが、孫晧も恩に感じていた部分もあったのであろう。

魏への弔問

宝鼎元年(266年)の正月、大鴻臚の張儼と五官中郎将の丁忠とを使者に立て、晋の文帝の死を弔わせた。(『孫晧伝』)

晋へ使者に立つに際し、孫晧が張儼に言った。

「現在、南北両国の友好を固めるに当たり、あなたは外国へ出て交渉に当たる才があると思えばこそ、わざわざ行ってもらうのだ。」

答えて言った。

「かがやかしき華のように(君命を輝かすべき使者として)栄誉ある役目を賜りました上は、古人のごとく主君の誉れを遠くにまで輝かすと言った立派な手柄は立てられぬまでも、武器を切っ先から根元まで磨き上げて、君命を辱めぬ覚悟でおります。」

晋の朝廷に到着すると、車騎将軍の賈充、尚書令の裴秀、侍中の荀勗たちが彼が知らぬことを持ち出してやっつけようとしたが、困らせることができなかった。尚書僕射の羊祜と尚書の何楨とは、ともに彼と厚い友情を結んだ。(『孫晧伝』裴注『呉録』)

魏との外交を重視し、外交能力に優れた人物を選出し、そして見事に成功させている。孫晧の優れた才能の一端を示す逸話だな。

確かにここまでの逸話を見る限り、名君にしか思えないんですよね。 

思うに、孫晧自身が自ら判断でき、動けていた時期と、彼が病に倒れ、その間に佞臣が政治を壟断していた時期があったのではないだろうか。

実際彼は42歳と言う若さで284年に亡くなっている。健康面に問題があったのは恐らく確かであろうからのう。

さて、多分次からは彼が残虐と思われる要因を抽出して見ていくとしようかのう。

 

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