字、出身地は不明じゃな。公孫度 の一族かどうなのかもわからんぞい。
じゃが重要な人材ではあったようじゃ、その辺りを見ていくと使用かのう
人物紹介
公孫度の息子の公孫康の時代じゃが、屯有県以南の辺鄙な土地を分割して帯方郡を作っておるんじゃ。
この時に公孫模と張敞がその地の中国人を結集し、兵を起こして韓と濊を討った、とある。名前が出てくるのはそこだけじゃが、軍人としてなかなか評価できるのではないであろうか。
能力評価
公孫模は目立たんが、異民族討伐で功績があるので、軍事はそれなりの評価じゃな。その際現地の漢人を集め軍編成を行っておることから、統率も高めにしておるんじゃ。
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雑談ぢゃ
ほっほっほ、どうもくまの爺じゃ。今回は公孫模と言う武将じゃ。
え、たったこれだけですか!?
うむ、史書にはこれ以上の情報は載っておらん。しかもぢゃ
もしかしたら公孫模は191年ごろはまだいなかった可能性もある。
ええ、どういうことですか!?
うむ、帯方郡を作っておるのは公孫康の時代じゃが、それは204年以降と10年以上も後ぢゃ
下手をすると20年ぐらい後(211年)ぐらいかもしれん。
そんな後に初めて名前が出ると言うことは、確かに微妙ですね。
うむ、じゃが191年当時も既にいた可能性はソコソコ高いと思うのぢゃ。
普通に考えて、兵を集めて敵を攻めさせる、と言う重要な役割をぽっと出の若手にはやらせないじゃろう。
なるほど、重要な役割を任せるのだから結構ベテランだったと。
うむ、しかもその後一切出てこないのも、やはりそれなりの年齢じゃったからではないかな。
確かにそう考えると何となくありえそうな話ですね。
あくまでも可能性の話じゃがな。では能力の話に行こうか。
今回鄭問之三國志と三國志14には武将が出ておらんので、そちらはパスぢゃ。
逆に天舞~三国志正史~に入っているってすごいですね。
うむ、さすがは正史とうたっているだけはある、たいしたものぢゃ。
ですが、うーん、あまり高くないですね。こんなもんでしょうか?
そうじゃな、ワシはもう少し高かったと思っておる。じゃがこれは仕方ないかもしれん。
どういうことですか?
うむ、武将と言うのは皆能力を100とかはできんじゃろ。優秀な100人がおったとしても、必ず序列は付けられ、能力に差は付けられる。そうしなければゲームが成り立たんからのう、必ずやられ役ができてしまうのぢゃ。
つまり、ゲームの能力は偏差値みたいなものですか?
そうじゃな、人数に限りがあると優秀でも割を食らうもんじゃ。
師匠の評価では軍事面は実績があるだけ、さすがに高い感じですね。
そうじゃな、一緒に兵を率いた張敞もそれなりに評価しておるんじゃが公孫模の方が先に名前が出ているので、こちらを司令官向きと判断して統率を高くしておる。
なるほど、その辺りは結構細かく考えていらっしゃるんですね。
うむ、どの君主にも天下統一のチャンスはあって欲しいからのう。それに住民を集めて兵を編成し敵を破る、と言うのは言うほど簡単ではないと思うでな。決して温情やひいきの評価でもないぞい。
確かにそうですね。納得しました。
うむ、それではまたのう。
また見てください!