三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

田疇(でんちゅう) 字:子泰(169~214)

さて、今回は田疇じゃな、魏志に立伝されておる重要な人物の一人ぢゃ。

字は子泰。以前も少しだけ書いたが、彼は曹操に協力しながら褒賞や爵位を受けようとしなかった人物ぢゃ。

彼はどんな人物じゃったのか、簡単に説明していこうかの。

人物紹介

若き日の田疇

田疇は読書が好きで、剣術に優れていた人物じゃ。190年に董卓長安に遷都をした際に劉虞献帝に臣下の節義を捧げたい、として誰か使者として適当な人物を求めたんじゃ。周りの人々の意見は「田疇は若いが、多くの人が評価する人物です。」と言うものじゃった。田疇はこの時まだ22歳じゃったが、会見した劉虞は大いに田疇を気に入り、彼を使者として長安に派遣したんじゃ。

田疇は無事に長安にたどり着くことができ、使者としての使命を果たしたんじゃ。そこで勅命によって騎都尉に任じられたんじゃが、彼はそれを固辞したんじゃな。

固辞した理由は「帝が洛陽を離れ、落ち着いた状態になることもできていないのに、自分が栄誉恩寵を受ける訳には行きません。」と言うものなんじゃな。

多分、自分も乱世の要因の一人であると言う認識で、世が落ち着き帝が洛陽に戻り落ち着ける日が来るまでは栄誉や恩寵を受ける訳にはいくまい、と言う彼なりの節義を固く守っていたんじゃろうな。逆に乱世を終わらせるための協力はいくらでもする、と言うことなのじゃろう。朝廷は彼の道義心に感心し、三公と言う後漢トップの役所からも招聘されたが、結局すべて断っておるんじゃ。

豆知識 

後漢の組織としては以前もちらっと書いたが三公が国政を担っておったんじゃ。三公とは「司徒」「司空」「太尉」じゃな。それぞれの役割はざっくりとじゃが以下のような感じじゃ

「司徒」:政務全般を司る、現代で言うなら総理大臣

「司空」:土木・建築を司る、現在で言うなら国土交通大臣兼副総理

「太尉」:武事を統括する(名誉職)、現代で言うなら防衛大臣

 

劉虞の死

役目を果たした後、田疇は急いで幽州に戻るんじゃが、到着前に劉虞は公孫瓚に処刑されてしまうんじゃな。

「先賢行状」と言う資料では田疇は長安へ赴く前に劉虞に公孫瓚は危険だから早めに排除すべき、と言っておったらしいんじゃ。劉虞はそれを認めなかったらしいが、よりによって田疇がいない間に劉虞が挙兵し、しかもそれで敗れ処刑されてしまうとはのう。田疇の思いたるやどんなものであったろうかのう。

幽州に戻ると、何と田疇は罪人として処刑された劉虞の墓に拝謁して哭しておるんじゃ。これでは公孫瓚のメンツは丸潰れじゃな。

当然公孫瓚は激怒し懸賞金をかけて田疇を捕まえ、そして劉虞の墓で哭したことを難詰するんじゃ。すると田疇は「あなたは罪なき主君(劉虞)を滅ぼした上に、道義を守る臣下に仇をなそうとしている。これはどう言うことですか。もしこのことを実行(田疇を処刑)すれば、趙・燕(幽・冀州)の人で、耐え忍んであなたに従う者がいるでしょうか。」と堂々と応えたんじゃ。公孫瓚 はその勇気に感心し、処刑しなかったんじゃ。

それでもまだ拘束はされておったんじゃが、ある人に助言されたことでついに田疇は自由の身になるんじゃよ。

独立した邑の構築

自由の身となった田疇は一族郎党を引き連れ「主君の仇を討つため」には一人じゃ何もできないから、と言うことで同様の意志を持つ人達と、一つの大きな邑を徐無山と言うところに築くんじゃな。そして彼はそこに帰属する人々のために指導者を立てようと提案するんじゃ。皆は当然田疇を推し立てる。そこで指導者となった田疇は法を整備して学校教育の事業も起こし、他にも様々な制度を制定したんじゃ。その地は道に落ちている物を勝手に拾って持ち去ることもなくなり、皆彼の威光信義に服することになったんじゃ。

こうして一大コミュニティを築くと、烏丸や鮮卑は彼の下に贈り物を届けるようになり、田疇は彼等を慰撫し、侵略しないように命じたんじゃ。.

また袁紹が将軍の印綬を送ってきて田疇を引き入れようとしたんじゃ。しかし田疇はこれを拒んで受けなかったのじゃよ。息子の袁尚も田疇を招聘しようとしたが、これも拒否しておるのう。

そして烏丸に関しては表面上は彼等の貢物を受け入れていたが、かつて郡の高官が多数烏丸の襲撃を受けて殺害されていたことからいつか討伐したい、と考えていたのじゃ。しかしそのためにはまだ力が足りない、と思い悩んでいたところに、曹操が袁一族の残党及びそれに協力する烏丸の討伐のために遠征に来たんじゃよ。

曹操との会合、烏丸遠征

曹操は田疇を招くとすぐに田疇は赴いたんじゃ、袁紹にはあれ程招かれても固辞しておったのじゃが、皆は首をかしげるが田疇は「これは君等に分かることではない」と笑いながら答えた、と言う。

実はこの話にはからくりがあるんじゃ。この少し前になると思うが、邢顒と言う人物が田疇の下で客となっておったんじゃが、彼は曹操の陣営は法令がいきわたっており、いずれ彼の下で平和が訪れるでしょう、と言って率先して曹操の下に赴いているんじゃ。恐らくこの辺りの情報を得て、田疇も興味を持ったんじゃと思われるのう。邢顒も魏志に立伝されておることから、人を見抜く優れた目を持つ優秀な人物であった、と言うことなんかのう。

さて207年のこの遠征じゃが、この時に海沿いの道は大洪水に合い、不通になってしまったんじゃ。そこで曹操が田疇に相談すると、今は使われていないが柳城方面へ通じる細い道が存在する、として道案内役を願い出たんじゃ。曹操は一旦軍を引かせ退却したように見せ、柳城へ至る細道を縫って襲撃し大いに敵を破ったんじゃ。

この功績で田疇は食邑五百戸の亭侯に取り立てられるんじゃが、田疇はこれをまたも固辞する。田疇としては奇襲が上手くいきすぎたために敵が逃亡した、と言うだけであり自らが功績を立てたことが原因ではない、と言うんじゃな。

何というか固辞し過ぎじゃろ、と言う気がしないでもないが曹操はこれを聞き入れ、彼の意思を尊重したんじゃ。

袁尚の死

袁尚公孫康に処刑されて首を送られると曹操は「敢えて彼を哭するものがあれば斬罪とする」と命令するんじゃが、何と田疇は以前袁尚の招聘があったことから、またも弔い祭ったんじゃ。曹操はこれを不問に付したが、周囲の人間は青ざめたじゃろうな。

裴松之は注釈を付けて、袁尚の招聘を受けたが赴いている訳でもなく、しかも袁尚等を倒すための策まで曹操に授けているのに、今更哭するのは正当性がないではないか、と非難しているが、どうじゃろうなぁ。そんな単純なものでもないと思うんじゃよ。

この後田疇は一族郎党を引き連れ、鄴に住むようになったんじゃ。恐らくは曹操に対する忠誠を誓うため、また家族を自ら進んで人質として出したんじゃろうな。爵位や褒章は受けないが心服はする、と言う奇妙な関係が出来上がるんじゃよ。

曹操のラブコールとつれない田疇

その後、荊州に侵攻した時に田疇は付き従い、また功績をあげるんじゃ。今度こそ、と曹操はまた前の褒賞を授けようとするんじゃが、またも田疇はこれを固辞する。その内に役人がこれを問題視して弾劾し、自分の節義にこだわって褒賞を受けないのは法令違反ではないか、免職して厳罰に処すべき、と言い出したんじゃな。

曹操はそんなことをするべきではないと思っておったが、何とか田疇を侯に取り立ててやれないものかと、曹丕や大臣たちと議論させたんじゃ。曹丕は「春秋左氏伝」の故事で似たような事例があることから、田疇の意思を尊重すべき、と意見を言っておる。荀彧や鍾繇も同じ意見じゃった。

それでも尚曹操は田疇を侯に取り立てたい、と思っておったんじゃ。田疇も田疇じゃが、曹操曹操じゃのう。田疇は夏侯惇と仲が良かったので、夏侯惇に何とか受けてもらえないかと、話を持ち掛けたんじゃ。夏侯惇は田疇と話をしたんじゃが、夏侯惇の意図を感じ取った田疇は最後は涙を流してこれを拒絶した、とあるんじゃ。この話を聞いた曹操はついに田疇を侯に取り立てることをあきらめ、彼を議郎としたんじゃ。これは光録勲に属する官職で宮中で皇帝の顧問・応対を担当するものになるんかのう。結構重要な役割じゃな。

そして田疇は214年、46歳で亡くなるんじゃ。田疇の従孫の田続に関内侯の爵位を賜り、田疇の後を継がせるように仰せつけたんじゃ。

さて、田疇に関しては以上じゃな。やはり長かったのう。続いて能力評価じゃ。今回は鄭問三國志以外に出ているぞい。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 田疇(20歳)  120 55 105 90
 ↓ ↓ ↓  ↓↓↓ ↓↓ ↓↓
 田疇(45歳)  156 84 139 123

f:id:kumajisan:20201003172029p:plain

 

田疇は剣に優れ、騎都尉に任じられたことからも軍事面で評価しておるんじゃ。また烏丸達を破る策や、ゼロから一つの邑を作り上げる等、知謀や政治にも優れておる。

その一方率いる軍勢は数百程度と極僅かで、軍事面の活躍も常識の範疇に留まっておるので、この辺りは平均的な評価じゃな。ただまああくまで他の項目に比べたら、と言う程度じゃな、トータルで見たら非常に優秀な人物じゃと思うぞい。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 田疇  66 66 72 74 74

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 劉虞  5 7 9 8 2 13

 

 ↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい

 

雑談ぢゃ

ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回で劉虞陣営最後の人物、田疇じゃ。今回は立伝されている人物と言うこともあって長かったのう。

しかし師匠、なかなか過激なタイトルを付けますねえ。薄い本ができちゃうんじゃないですか。

何じゃ、お主そっち方面に興味があるんかい。

ななな、なっ、何を言うんですか、そそ、そんなことある訳ないじゃないですか、や、やだなあ。

ふむ、そうかのう、ほっほっほ。

むうう、あ、それにしても曹操って確か関羽の時も同じようなことしていませんでしたっけ?何かすごい情熱的な人なんですね。

(上手く話をそらしたのう)ふむ、そうじゃな、詩人の側面もあるためか、彼はとても感情豊かな人間じゃったんじゃろう。気に入った人物には男女関係なくとことん入れ込む。曹操の良い点でもあり、悪い点でもあるのう。まあ入れ込み過ぎるとろくなことはないでな、ほっほっほ。

それにしても田疇はなぜそこまで固辞したんでしょうか。少し意固地になり過ぎな気もするんですが。

そうじゃなあ、1つは烏丸達に郡の高官たちが多数殺害されたのに対し、たまたま自分は運良く生き延びれただけ、と言う思いと、特に自分を認め取り立ててくれた劉虞が殺害されてしまった事は大きかったと思う。

墓参りして哭したのは、殉死するつもりだったんじゃなかろうか。公孫瓚のことだからここまでやれば処刑するだろう、最後に言いたいことを言って死のう、と思っておったら、逆に気に入られて生き延びてしまった。これで田疇は死に場所を失ってしまったんじゃなかろうか。

うーん、たまたま運良く生きているだけで、本来なら死んでるはずの人間なんだから、褒賞や爵位を受けるような立場にない、と言うような考え方なんでしょうか?気持ちは分からなくもないですけど。

そうじゃな、ちょっと己の生に対して突き放し過ぎな気もするのう。そうじゃ、袁尚の時に哭した件も最初から自分は死人のようなものじゃから、と言うので哭したんじゃないかのう。

自刃とかは考えなかったんでしょうか。儒教は自殺は禁じていました?

うーん、決してそうとは言えんと思うんじゃが、もしかしたら自ら命を絶つこともできず、人に己の命を委ねている、と言う部分も負い目になっておったのかのう。戦場で自らの命を晒していることを考えると、気にするようなことでもないように思うんじゃがな。

まあ、彼の思いはもう彼にしか分からんので、これ以上追い求めてもしょうがなかろう。しかし弟子よ。

何でしょうか、師匠。

三国志と言うと、やれ曹操だ、周瑜だ、諸葛亮だ、関羽だと中央の華やかな話ばかりにどうしてもなってしまうが、有名ではないがこの田疇のように、無から1つの邑を作り民衆の生活の場を与える人物もいる。こういう人物があちこちにおり、それは決して先の人物達より軽く見て良いものでもない、と言うことを肝に銘じておくんじゃぞ。

!そうですね、それはその通りだと思います。

そうじゃ、中央あっての地方であり、地方あっての中央でもある。これは決して忘れてはならんぞい。それともう一つあるんじゃが。

?は、はい、何でしょうか?

もしかしたら田疇の劉虞への思いも強すぎたのかもしれんのう。これはこれで薄い本ができそうではないかえ?ほっほっほ。

~~~しし、師匠、そ、それ以上は問題発言ですよ!もう、田疇にも失礼です。

今回はここまでにしますよ。次もまた見てください、それではまた!

うむ、さすがにいいすぎたかのう、スマヌ。それでは次は劉虞勢力のまとめじゃ、またよろしく頼むぞい。