さて、今回は鮮卑族の大人の一人、闕居じゃな、闕機(けっき)創造の一因となったお騒がせ(?)大人であり大帥とも呼ばれておる。と言うことで鮮卑の中央エリアを拠点にしておった人物じゃな。
字や生没年は不明ぢゃ。今回は彼の紹介をしていこうかの。
人物紹介
さて、闕居は中央のエリアを支配していた大人の一人なんじゃ。そして大帥でもあると言うことはこ奴も実戦部隊の中核を担っておったのじゃろう。
177年に、護烏丸校尉の夏育、破鮮卑中郎将の田晏、匈奴中郎将の臧旻が雁門塞から長城の外に出て、遠征を行って敗北したと言うのは前に書いた通りじゃな。
ちなみにこの時敗北した3人の中で臧旻には臧洪と言う息子がおり、彼は魏志で立伝されておるんじゃ。そのため父の臧旻の事績も結構詳しく載っておるんじゃよ。この時は敗北しているが、それ以外の記録を読むと賊討伐や各地の太守として活躍しており、官吏としてかなり優秀じゃったようじゃな。
まあ、そんな人物でも敵わなかったのじゃから、檀石槐恐るべし・・・じゃな。そしてその配下で軍を率いておった闕居も侮れん実力を持っておった、と言うことじゃろうな。
さて、能力評価じゃな。今回もワシの評価のみじゃ。
能力評価
闕居もまた大帥の一人として武闘派の一角を担っておるので軍事が高めじゃ。柯最より軍事は少し低めじゃが、その分統率を高くしておる。他は多少控えめなのも似たりよったりじゃな。
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雑談ぢゃ
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は鮮卑族の大人の一人、闕居じゃな。
そう言えば臧旻の説明見て思ったんですが、3人共将軍じゃないんですか?
うむ、良い質問じゃな。これはまた詳しく説明しないとイカンと思っておるんじゃが、後漢において将軍職は非常設の役職なんじゃ。何故じゃと思う?
戦争がしょっちゅう起きていないから・・・ですか?
そうじゃ、三国時代は基本的に常に三国が争っている状態じゃから、将軍があふれかえっておるが、基本戦乱が無ければ将軍職は不要じゃからの。そのため将軍の役割は通常校尉や中郎将と言った人物が担っておったんじゃ。まあ将軍代行、序列としては将軍に次ぐ地位なんじゃよ。
大きな戦乱が起きない限りは将軍職に就くことはめったにない、と言うことですね。
そうじゃな、黄巾の乱で大活躍した皇甫嵩と朱儁と言う人物がおってのう。彼等は黄巾の乱を討伐するために数万の兵をそれぞれ率いておったんじゃが、それでも肩書は左中郎将、右中郎将だったんじゃ。
数万の軍の指揮ともなると、本来並の将軍では務まらんのじゃよ。複数の軍団が並立していることになるでのう。まあその辺りはまたおいおい説明していくとしようかの。
何となくですが、檀石槐の話を聞いていると、もっと闕居達も強くても良いのではないでしょうか。
まあこの辺りは難しいが、檀石槐が亡くなってから明らかに弱体化しているからのう。例えば魏は曹操が亡くなってからも強かったが、これは配下にも優秀な人材が多かったからで、曹操一人に対する依存率が鮮卑達のそれほど高くなかったためと考えられるのじゃ。
その辺りを考慮し、尚且つ公孫瓚や公孫度が割拠し対抗できる程度、と考えると現在の鮮卑族の評価はこんなもんじゃなかろうか。
この辺りの感覚は難しいですね。
まあ、ワシ自身がこんなもんかな、いやもうちょっとこう、といつも迷いまくっておるからな。簡単でないのは確かじゃよwさて、今回はここまでじゃな。ではまたのう。
次も見てくださいね、それではまた!