さて、今回は袁紹の武将、王摩じゃな。いきなりマイナーどころに行ったが、まあ親族武将以外は基本的にあいうえお順でいくから許してくれい。
字、生没年は不明。彼の紹介を行っていくぞい。
人物紹介
さて、上でも書いたが、王摩は袁紹の部下じゃ。彼が出てくるのは一瞬じゃな。曹操配下の武将として于禁と言う武将がいるんじゃ。先日ちょっと名前の出てた張郃と並ぶ魏の名将なんじゃ。
官渡の前日譚になるが徐州で反乱した劉備を曹操が攻めた時、曹操は于禁に千の兵を指揮させ、延津と言う場所を守らせておったんじゃ。津は日本じゃと渡し場とか港のような意味を表すので、恐らく黄河を渡るポイントになっておったんじゃろう。
実は袁紹も曹操が兗州を空けている状況を手をこまねいているわけではなく、兵を送り込んで延津に攻め込んできたんじゃな。しかし于禁はここを固守して撃退したんじゃな。
すると今度于禁は楽進と言う、これまた魏を代表する名将と5千の兵を指揮し、黄河を渡って南西方面に進撃し、汲、獲嘉の二県まで行き、30数か所の守備地を焼き払い、数千の首級と捕虜を得た、とある。延津と汲・獲嘉は下の図の赤枠で囲っている辺りの戦いじゃ。曹操は徐州に攻め込んでおるから、曹操が戻るのに一番時間のかかる地域に袁紹は攻め込んでいるんじゃな。結構袁紹も考えておるのう。
この時に袁紹の将軍何茂と王摩ら20数人を降伏させた、とあるんじゃ。王摩の出番はこれで終わりじゃ。しかし首級と降伏した将軍の数は少々大げさかのう。
まあそう感じた理由は、おいおい説明していくとしようかのう。
さて、それでは能力評価じゃな。今回はワシの評価のみじゃな。
能力評価
王摩は于禁等になすすべなくやられて降伏した、と言う事績しか残っておらんため、全体的に抑えめの評価となっておるぞい。
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雑談ぢゃ
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は袁紹の武将、王摩じゃな。
于禁と言う武将にやられちゃいましたね。今回の戦いを見ると于禁はかなり優秀そうですね。
うむ、三国時代を代表する武将の一人じゃ。後年関羽は彼を降伏させ、捕虜にすることができたが、普通に戦っていたら勝ち目があったか・・・と言うぐらいの強者じゃな。
関羽でもそうなるって、やはり強いんですね。
うむ、まあじゃから王摩が彼に敗れたことも仕方ないと言えば仕方ないんじゃよ。
そう言えば将軍の王摩達20数人、と言う部分が大げさと書いていましたが、どう言うことでしょうか?
ふむ、まあこれは多少軍によって多寡はあるものの、将軍つまり一軍の将じゃな。この一軍と言うのは後漢の軍制で言うとおよそ3,200人の兵士集団なんじゃ。
3,200人ってまた中途半端?な人数ですね。
うむ、そこの軍制についてはまた何時か詳しく説明するとしよう。
まあ、そこで将軍一人に3,200人の兵士が付いているとして、その将軍が20人おったとすると
えーと、64,000人の兵士がいた、と言うことですね。
そうじゃ、いくらなんでも司隷方面の最南端の拠点にそれだけの兵士は多すぎるし、さすがに于禁や楽進が名将と言え、二人合わせて5,000人の兵でこれだけの兵を撃退するとは思えんのじゃ。
もしできていたら張遼の合肥ぐらいに持ち上げられてるじゃろうな。
む、また知らない人がでて来ましたね。張遼も名将ですか。
うむ、彼は張郃、于禁、楽進と並んで、最強候補にも名前を挙げられる名将じゃ。まあその内紹介できると思うから、楽しみに待っておくんじゃよ。
まあ、以上のことから将軍は2~3人、その下の偏将軍(副将)や校尉などを含めて20数人と言うなら兵数は6,000~10,000弱じゃから分らんでもないがな。
なるほど、良く中国は戦果とかの数字をオーバーに書くことがあると言いますからね。
そうじゃな、実際10倍で戦果を報告が当たり前、と言う記述もあるからの。ただまあどちらにしても袁紹陣営にとっては大惨敗じゃな。
確か10%の犠牲で壊滅でしたよね、仮に于禁達の戦果を10分の1で見積もっても数百人の犠牲ですから、結構な大打撃ですね。
うむ、そう言うものじゃ。それでは今日はここまでじゃな。また次もよろしくの。
次も見てくださいね、それではまた!