さて、今回紹介するのは夏侯淵じゃな。字は妙才と言うんじゃ。曹操陣営を代表する勇将じゃな。
彼は関中方面で威名を上げた人物じゃな。彼に関しては知っている方も多いじゃろうが、改めて紹介するとしようかのう。
人物紹介
さて、今回は夏侯淵じゃな。
彼は演義では曹仁とかよりは、良いポジションにいるような気もするんですが如何でしょうか。
まあ、やられ役という部分は変わらんが、そうじゃな、彼は最後蜀の黄忠に斬られておる。曹仁はそこまではやられていないからのう。斬られた人物を大物にしておけばより蜀の武将が輝く、と言う感じだからかのう。
武官としては間違いなく優秀じゃな。じゃがその最後をめぐって、評価は多少ばらつく感じじゃな、ワシも評価するのがかなり難しかったぞい。それではまずは戦績から見ていくとしようかのう。
軍事面の実績
対昌豨 〇 (東海)
対徐和・司馬俱 〇 (済南)
対徐和・司馬俱 〇 (楽安)
対雷緒 〇 (盧江)
対商曜 〇 (太原)
対韓遂 〇 (渭南)
対氐族 〇 (隃麋)
対氐族 〇 (汧)
対楊秋 〇 (安定)
対劉雄鳴 〇 (南山)
対梁興 〇 (鄠)
対馬超 × (冀県)
対馬超 〇 (祁山)
対韓遂 〇 (顕親)
対羌族 〇 (長離)
対韓遂 〇 (長離)
対千万 〇 (略陽)
対氐族? 〇 (屠各)
対氐族? 〇 (屠各)
対宋建 〇 (枹罕)
対羌族 〇 (河西)
対氐族・羌族 〇 (下弁)
対張魯 〇 (陽平)
対劉備 △ (陽平)
対劉備 × (定軍山)
25戦 22勝2敗1分
夏侯淵の戦績はおよそ以上になるのう。トータルの勝率は8割8分じゃな。曹仁には及ばんものの、かなり優秀な勝率じゃ。軍人として明確な実績が見えてくるのは昌豨戦からで、思ったよりも参戦時期が遅いんじゃな。もしかしたら同じ曹操の族弟と言っても、曹仁や曹洪よりは多少若いのかもしれんのう。続いて主な戦闘の内容を記載するぞい。
主な軍事内容
馬超との戦い(一回目)
夏侯淵は曹操が関中を平定した後、馬超と2回戦いを繰り広げておるんじゃ。まず一回目は馬超が冀県で韋康を包囲するんじゃ。韋康は数ヶ月粘るんじゃが、夏侯淵も別の討伐にかかっており、また別の理由もあって、なかなか救援に向かえんかったんじゃよ。
やっと夏侯淵が救援に向かえたんじゃが、残念ながら到着前に韋康は降伏してしまったんじゃよ。そうなると馬超も準備万端で迎え撃つ体制になってしまっておる。
先に戦場を制圧できておれば、有利な地勢を生かして軍を展開できる。こうなると馬超の方が圧倒的に有利で、事実この時は夏侯淵は負け戦となるんじゃよ。
馬超との戦い(二回目)
さて、馬超との二回戦目。実は韋康は降伏したにも関わらず、馬超に殺害されてしまうんじゃ。韋康の部下だった連中は馬超に仕えるんじゃが、韋康の復讐を考えるんじゃな。
姜叙が馬超に対する反乱を起こし、馬超がその討伐に向かった隙に、趙衢と尹奉は馬超の妻子を殺害するんじゃ。馬超は一旦漢中に逃げるも、兵を率いて祁山を包囲するんじゃな。この時、姜叙等は急ぎ夏侯淵に救援を求めるんじゃ。
この時諸侯は曹操の指示を待とう、と言ったんじゃ。実はこの時まだ夏侯淵には節鉞の権限がないと思われ、勝手に独自の判断で軍事行動を起こしてはいかんかった、と思われるんじゃ。実は一回目の馬超攻略が遅くなったのも、この時の夏侯淵の話から伺えるんじゃよ。
「公(曹操)は鄴においでであり、往復四千里もある。ご返事をいただくころには、姜叙等は敗北しているに違いない。それでは危急を救うことにはならぬぞ。」
一里は420m程度なので四千里なら1700㎞前後じゃな。
元々夏侯淵は尋常でない行軍速度からの奇襲による不意打ちを得意としておるんじゃよ。『魏書』によると夏侯淵は軍中では「典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日で一千里。」と言われていたんじゃ。
上の記述からもこの時期夏侯淵は軍を動かす際に、曹操の裁可を仰いでいた、と言うことじゃと思うんじゃ。本来奇襲戦法を得意としていた夏侯淵にとって、韋康を救いに行けなかったのは、誰よりもジリジリする状況だったのではなかろうか。
こうして本来なら軍法違反になりかねん軍の派遣を夏侯淵は決定するんじゃよ。先鋒は夏侯淵の神速の行軍を支えておった五将軍の一角張郃じゃな。彼が騎兵・歩兵合わせて五千を率い、一気に陳倉を下り祁山へ向かうんじゃ。
夏侯淵は後詰めで兵糧の監督をしておったようじゃな。
そして張郃が渭水に到達し馬超と対峙すると、馬超はかなわないと思ったのか逃走するんじゃ。張郃は大型武器(恐らく攻城兵器等)を没収し、夏侯淵が到着する頃には諸県を降伏させておったんじゃ。この辺りはさすがと言うべきじゃのう。
韓遂との戦い
韓遂も馬超と並ぶ強敵じゃったが、夏侯淵がこれを攻撃しようとした時、諸将は彼を正面から攻撃したいと願うんじゃよ。中には目先を変えて興国の氐族を攻撃すべしという意見もあったんじゃが、夏侯淵はこれらの意見を却下するんじゃ。
韓遂の兵は精鋭であること、興国の城は堅固である、と言うのが理由じゃな。そこで夏侯淵は長離の羌族を攻めようとするんじゃ。
実は韓遂の軍には長離の羌族が多く参加しておったんじゃ。夏侯淵がこれを討伐すれば、羌族の兵士たちは引き返してきて家族を救おうとするに違いない。もし韓遂が羌族を見捨てれば、彼は孤立することになるじゃろう。
逆に羌族を救おうと救援に赴けば、平野での戦いになり、きっと彼を生け捕りにできる、と判断したんじゃ。
実際韓遂は救援に向かってきたんじゃ。さすがに夏侯淵の軍も疲弊しておったが、夏侯淵は味方を鼓舞し、大いに韓遂軍を破るんじゃ。
宋建との戦い
張郃の所でも書いておるが、宋建は枹罕で河首平漢王と自称し、丞相以下百官を任命し、30年に渡り独立王国を建てておったんじゃよ。黄巾の乱前後、霊帝の時代に辺章と共に反乱を起こしておるんじゃが、これをたきつけたのも、実は宋建だったようなんじゃな。馬超や韓遂のような明確な軍事力は見えんが、独立王国を築き長年維持をすることから、遼東の公孫氏同様侮れぬ勢力じゃったと思うぞい。
そしてこれを滅ぼすのが、また夏侯淵と張郃のコンビじゃな。この時の様子は張郃の紹介の方に乗っているので、そちらを参照してくだされ。
これらの戦いを経て、夏侯淵の威名は関中に響き渡るんじゃ。そしていよいよ、漢中で劉備との決戦が待っておる訳じゃな。と言ったところで今回はここまでじゃな。次もよろしく頼みますぞい。
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