ついに来てしまったか。今回紹介するのは張郃じゃ。
実はわしが三国志で一番好きな人物だったりするんじゃよ。
張郃、字は儁乂。あまり他で見かけないこの字にも深い意味があるんじゃ。
ちと長くなるかもしれんが、気が向いたら彼がどんな人物じゃったか見てくだされ。
人物紹介
さて、今回は張郃の紹介じゃな。そう言えば弟子よ。
何でしょうか?
沮授のところでこれほどの人物はなかなかおらんぞい、と能力評価のところで言っておったじゃろう。
はい、言ってましたね。
スマン、あれ嘘じゃw沮授の次が張郃なのをすっかり忘れておったわい。
えええ、またいきなりぶっちゃけましたね。
すまぬ、まあ。お主を納得させるだけの人物じゃと思うから。
分りました。上でもかなりのこと書いていますし、きっちり説明してください。
うむ、それでは今回はまずは軍事面の実績からの説明をしていこうかのう。
軍事面の実績
対黄巾 〇 (冀州)
対公孫瓚 〇 (幽州)
対曹操 × (官渡)
対袁尚 〇 (鄴)
対袁尚 〇 (擁奴)
対蹋頓 〇 (柳城)
対管承 〇 (東萊)
対陳蘭・梅成 〇 (天柱山)
対楊秋 〇 (安定)
対梁興 〇 (鄜)
対氐族 〇 (武都)
対馬超 〇 (祁山)
対宋建 〇 (枹罕)
対諸部族 〇 (河関)
対羌族 〇 (河西)
対竇茂 〇 (興和)
対張魯 〇 (陽平)
対蜀漢 〇 (巴東)
対劉備 〇 (広石)
対劉備 △ (定軍山)
対劉備 △ (漢中)
対盧水胡 〇 (安定)
対東羌 〇 (安定)
対孫盛 〇 (江陵中州)
対劉阿 〇 (祁口)
対馬謖 〇 (街亭)
対反乱 〇 (南安)
対反乱 〇 (天水)
対反乱 〇 (安定)
対諸葛亮 〇 (南鄭)
対王平 △ (祁山)
対諸葛亮 △ (木門)
37戦 31勝2敗4分
およそ以上になるかのう。トータルの勝率は8割4分近くじゃな。恐るべき勝率と戦歴の多さじゃ。彼の戦闘と記録に残っておる数だけで、蜀で一番戦を行っておるであろう劉備の戦績数を超えており、勝率も圧倒的じゃ。
それともう一つ、彼の行軍距離のすさまじさじゃな。北は遼東近くの柳城まで、東は東萊、おそらく東海の辺りも攻め込んでおるじゃろう。そして西は雍州の西の果て付近まで攻め込み、また益州でも巴東、巴西まで侵入しておる。もしかしたら魏でも一番行軍距離が長い人物なのではないだろうか。
それではいくつかの戦場での戦いを披露しようとするかのう。
主な軍事内容
官渡の戦い前
官渡で曹操と対峙する前の話じゃと思うが、『漢晋春秋』によると、この時張郃は袁紹に「公は連戦連勝しておられますが、しかし曹公と直接戦ってはいけません。ひそかに軽装の騎兵を派遣して彼等の陣営の南方地帯を荒らして連絡を断ち切らせれば、自然と敵兵は敗れます。」と進言したんじゃが、例によって袁紹は従わんかったんじゃな。
後に劉備を汝南へ送り込んだりはしておるが、時宜を逃しておりあまり効果はなかったと言えるじゃろう。元々この意見は田豊や沮授と同じ考えであり、張郃の戦略眼が彼らと同一のものであったことがわかるのう。
官渡の戦い
官渡の戦いは郭図のところで詳細を書いておったと思うんで、そちらを参照してくだされ。
自身の進言が入れられず、しかもよりによって自分が反対した曹操本陣への攻略を命じられた。そして当然のように烏巣が落ちたことにより、ついに張郃は袁紹に見切りをつけ、曹操軍に降るんじゃよ。
当初本陣を守っていた曹洪は張郃と高覧の降伏をいぶかしむんじゃが、荀攸が「張郃は自分の計略が用いられなかったことに腹を立ててやってきたのです。疑うことはありません。」と曹洪をさとし、張郃の降伏を受け入れさせるんじゃよ。
馬超との戦い
馬超と張郃は戦っておるが、馬超にとって張郃は天敵だったようじゃ。曹操指揮の下、潼関では張郃が大いに馬超を破っておる。
また、真偽は不明じゃが『曹瞞伝』では潼関の前に馬超が曹操の本陣を急襲した時は、張郃と許褚の奮戦により馬超の襲撃を撃退できた、とのことらしいんじゃ。
また馬超が張魯から兵を借りて祁山を攻めた時、張郃が攻め込むとその威勢に恐れをなしたのか、干戈を交える前に馬超は逃げ出しておるんじゃよ。関中方面では夏侯淵の異名が鳴り響いておったが、実戦指揮官として徐晃や張郃は、敵将から夏侯淵に匹敵するぐらい恐れられておった、と言うことじゃろうな。
宋建との戦い
宋建と聞いてもあまりピンとこない人物は多いじゃろう。彼は関中方面の真の大ボスとも言える人物で、黄巾の乱前後からおよそ30年に渡り、漢に対して反乱していたんじゃよ。自らの王国を築いて丞相以下百官を任命し、独立国として関中に君臨しておったんじゃ。
実は韓遂をとっ捕まえて、反乱を起こすように促したのも宋建だったんじゃよ。馬超らを裏で操っておったとされる韓遂すら、実は宋建が裏で操っておったのかもしれん。そう考えると色々闇の深い話じゃな。
じゃがそんな宋建を張郃と夏侯淵は攻め滅ぼし、宋建以下丞相や百官を斬ったんじゃよ。あまり誰も話題にしない話じゃが、実は司馬懿が遼東の公孫一族を攻め滅ぼしたことに匹敵する壮挙だったんじゃよ。
漢中攻防戦
漢中攻防戦は主に張飛と劉備のところに書かれておるので、そちらを見るとええぞい。
劉備は一度広石での敗北もあったことから、これ以上はまず負けることはない、と言う兵力を整えて、改めて張郃の軍を攻めたんじゃ。張郃もだいぶ押し込まれたが、結局逃げられてしまった。
漢中攻防で夏侯淵が討たれると、張郃は臨時の都督となり、諸軍を落ち着かせることで劉備と再び対峙するんじゃ。
漢中方面の総大将であった夏侯淵は討ち取ったが、その後を引き継いで大将となった張郃が率いる魏軍には隙がなく、劉備も敢えてそれ以上攻めることはしなかったんじゃよ。
孫呉との戦い
張郃と言うと蜀漢との戦いが有名じゃが、実は呉とも荊州でやりあってるんじゃよ。しかもそこでもかなりの強さを見せておるんじゃ。
まずは曹仁が総大将として孫呉と戦った時じゃが、この時曹真と夏侯尚は江陵を包囲し、張郃は別に諸軍を率いて中州の砦に立てこもる孫盛を攻めたんじゃ。この時は艦隊を率いて長江を一気に渡り、中州を急襲して孫盛を追い払うと、この分捕った砦に張郃は立てこもったんじゃ。
また、曹叡が即位した後も荊州で孫呉と戦っておるんじゃ。この時は艦隊戦で呉の将の劉阿と言う武将を散々に破ったんじゃよ。水上戦でも孫呉の武将を相手に勝ち切れる将軍と言うのは非常に貴重じゃな。
少数の兵を率いては勇猛さを見せ、大軍を率いても優れた結果を残す。しかも陸戦に限らず水上戦もこなせる、これだけ様々な戦場に対処できる人物と言うのも、なかなかいないぞい。
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雑談ぢゃ
さて、張郃の軍事面の実績じゃ。どう思ったかのう?
そうですね。戦績がすごすぎて、ちょっと驚いています。張郃って強かったんですね。
そうじゃな、もっともこれに匹敵する戦績を持ってる人物は、魏には他にも何人かおるんじゃよ。
関羽と張飛は彼らの名前が載っていない戦闘でも劉備配下だからと言うことで確か戦績にカウントしているんですよね。これはそれとは違う、と言うことですね。
うむ、こちらは記録に彼が戦った、とされる内容のみピックアップしておるんじゃよ。それでもこれだけの数になったんじゃ。
それにしても、師匠は何故彼を好きになったのでしょうか?
まあワシマイナーじゃが実は実力がある、と言う人物が大好きという、変な奴じゃからな。
自分で変なヤツ言っちゃいますか、まあ確かにヘンですけどw
お主に言われたくはないぞいwまあ張郃は演義とのギャップがすごいからのう、俗にいうギャップ萌え、と言うヤツじゃよ、ほっほっほ。
それにしても、張郃に関してはまだいろいろと語り足りなさそうですね。
うむ、次は今回で語られることのない戦闘で、自分なりに分析、し思ったことを語っていくぞい。
少し長くなりますが、次も見てくださいね、それではまたです。