三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉寵(りゅうちょう) 字:不明(?~197)

さて、今回紹介するのは陳国の王にして皇族でもある劉寵の紹介じゃな。

じゃが申し訳ない。実は彼は正史本伝には出てこない人物で、自分の持っている史料で一部名前を見かけただけだったんじゃ。そのため、今回の出典は『Wikipedia』に依拠することになるんじゃ。

 

さて、今回は劉寵の紹介じゃな。上で書いた通り今回は三国志正史には載っておらん人物の紹介なんじゃ。

正史にも載っていない人を紹介するって珍しいですね。

余りにも無名で影響力の低い人物ならそのままで終わらせるんじゃが、彼はそうもいかんようじゃからな。『Wikipedia』からの引用で申し訳ないが紹介させていただくぞい。

それはそれでしょうがないですね。

うむ、まあ極力事実だろうと思われる部分を抜粋していくとしようかの。 

人物紹介

弩の達人、劉寵

さて劉寵じゃが、陳孝王劉承の子として生まれ、父が死去すると、後を嗣いで陳王となったんじゃ。彼は弩を射るのを得意とし、十発十中で、当てた矢がすべて同じところに立つほどの腕前だったようじゃ。

黄巾の乱の時に郡県の守令たちは皆城を放棄して逃亡するんじゃが、劉寵は強弩数千張を所持していたことから、都亭に軍を出動させたんじゃ。陳国の人々は劉寵及び彼の率いる強弩軍の強さを知っておったことから、敢えて反乱に加担する者はおらんかったようじゃ。

こうなってくると逆に陳国は安全と言うことで、庇護を求める民衆が数十万人に及んだと言うんじゃよ。

董卓連合軍への参加、そして最後

董卓連合軍が結成されると、劉寵も軍を率いて陳国の北部に位置する陽夏と言う地に駐屯しておったんじゃ。

じゃが、197年に袁術の軍勢が食料の欠乏に苦しみ、陳国の相である駱俊に食料を分けてほしいと申し込んできたんじゃ。じゃが駱俊は袁術のことを憎んでおったためにこれを拒絶するんじゃな。

そしてこれに怒った袁術は密かに人を遣って、劉寵と駱俊を暗殺してしまうんじゃよ。非常に残念な結末じゃな。

これにて劉寵の人物紹介は終了じゃな。続けて能力評価と行くぞい。今回はワシの評価のみじゃな。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 劉寵(20歳)  125 110 25 70
 ↓ ↓ ↓  ↓↓↓ ↓↓ ↓↓
 劉寵(45歳)  161 145 51 101

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劉寵は優れた武勇と軍勢を統率し、陳国に安定をもたらしておったようじゃ。しかも袁術が彼を排斥するのに軍事ではなく、暗殺と言う手段に訴えたことからも、彼の軍事力を脅威に感じておったのではなかろうか。そのことから軍事面の評価はかなり高くしたんじゃ。

また駱俊の尽力もあったとは言え、陳国に安定をもたらしたことから政治力も高めじゃ。じゃが暗殺に倒れたことから、注意力が少し低めと考え、知謀を抑えめとしたんじゃ。

 

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雑談ぢゃ

さて、劉寵の能力評価じゃな。

史書に乗っていないにしては、相当高いですね。

まあ、黄巾賊も陳国には侵入できず、袁術も軍事的には手を出せんかったからのう。本人の武勇伝も含めると相当な実力者であったのは確かじゃろう。

知謀だけが抑え目なのが少し残念ですね。

まあ、そこは国相の駱俊がある程度補ってくれるじゃろう。駱俊の紹介で豫州の勢力は終了じゃな。

次もよろしくお願いします。他に気になる人物がいましたら下をご覧ください。それではまたです。