さて、今回は龐悳の紹介じゃな。彼は馬騰・馬超配下として大きく活躍し、後には曹魏でも大きな足跡を残した人物じゃな。字は令明。こっち方面は何となくじゃが、字に明の付く人物が多い気が・・・気のせいかのう。生年は不明じゃが、没年は219年じゃな。
さて、今回は龐悳の紹介じゃな。涼州三明と言い、字に明の付く人物が多いような気がするのう。
どうも、張郃だ。まあ、名前にも流行り廃りはあるから、たまたまこの頃、三輔の方では字に明を付けるのが流行っておったのかもしれんな。そう言えば徐晃殿も明が付いているな。
日本でも世情を反映して、良く使われる名前が変わっていきますものね。
うむ、あの作品での馬玩は馬超に次ぐぐらい活躍しておったからのう。さてそれでは彼について見ていくとしようかのう。
まずは戦績ですかね。よろしくお願いします。
人物紹介
軍事面の実績
対氐族 〇 涼州
対王承 × 長平
対樊稠 × 長平観
対郭援 〇 河東
対衛固・張琰 〇 河東・弘農
対張晟 〇 河内
対高幹 〇 幷州
対張白騎 〇 弘農
対曹操 × 渭南
対韋康 〇 冀城
対楊阜・姜叙 × 鹵城
対梁寛・趙衢 × 冀城
対曹操 × 漢中
対侯音・衛開 〇 宛
対関羽 〇 樊1
対関羽 × 樊2
19戦 11勝8敗
およそ以上になるかのう。トータルの勝率は5割8分弱じゃな。勝率こそ高くないが、これは馬超に付き従って、何度も曹操や夏侯淵等と戦ったことで勝率を落としたようじゃ、ただ、明確な記録として残っていない異民族との戦いで活躍しておったようじゃな。
関羽とは激戦を繰り広げたようで、本来前線にあまり出ない司令官であるはずの関羽にも肉薄したようじゃな。
それではいくつかの戦場での戦いを披露しようとするかのう。
主な軍事内容
郭援・高幹等との戦い
さて、時代は曹操が袁紹を破って、しばらく後に袁紹が亡くなり、袁尚が曹操に抵抗していた時期の話じゃな。
魏志『張既伝』によると、袁尚は彼が任命した河東郡太守の郭援、幷州刺史の高幹と匈奴の単于に平陽を奪取させる一方で、馬騰等を引きこもうとするんじゃ。
しかし、鍾繇が逆に馬騰等を説得することで、曹操側に従わせることに成功し、彼らに郭援・高幹等を攻撃させるんじゃ。
龐悳は馬超に付き従い、軍の先鋒として進軍し、郭援・高幹を攻撃、散々に打ち破り、自ら郭援の首を斬ったんじゃよ。
郭援は実は鍾繇の甥であったのだが、その話も載っているな。
そうじゃな。『魏略』によると、龐悳は手ずから首級を一つ上げたんじゃが、それが誰かを把握していなかったんじゃ。
戦闘が終わると皆が、郭援が死んでいるのに首が入らない、と言っておったんじゃ。龐悳がゆぶくろから首を一つ取り出すと、鍾繇はそれが郭援であることを認識し、声を上げて泣いたんじゃよ。
「郭援はわしの甥ではあるが、国賊である。卿は何故あやまるのか。」
と言ったんじゃ。
公と私のけじめをつけ、龐悳を責めることは一切なかった鍾繇もたいした人物じゃな。
関羽との戦い
龐柔のところで少し書いたが、関羽討伐の際、龐悳は曹仁に従っておったんじゃ。
諸将が龐悳に対する疑惑を抱く中、龐悳は以下のように言うんじゃ。
「わしは国恩を受けており、道義から言って死を捧げばねばならぬのだ。わしは自身で関羽をたたくつもりだ。今年わしが関羽を殺さなければ、関羽がわしを殺すに違いない。」
のちに自身で関羽と戦闘を交えた時、関羽を射て、額に命中させた、とあるんじゃよ。当時龐悳は常に白馬に乗っておったので、関羽の軍では彼のことを白馬将軍と称し、皆恐れをなした、とあるんじゃ。
自ら郭援の首をとったり、関羽の額に弓を当てる、白馬将軍のエピソード等から、自ら前線で己の武勇を振るうタイプの武将であったと言えるじゃろうな。大軍の司令官と言うより、最前線で切り込み役として武威をあげた、貴重な人物と言えるじゃろう。
さて、とりあえず今回はここまでじゃな。次でそれ以外のエピソードや能力評価まで行こうと思うぞい。
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