さて、今回は夏侯尚の逸話について見ていくとしようかのう。彼はその最後から少し評価を落としているように思うんじゃよ。
さて、今回は夏侯尚に関するいくつかのエピソードについて見ていくとしようかのう。
どうも、張郃だ。上にもあるように、夏侯尚の最後についても語るのだな。
どんな話か興味がありますね。
あまり気分の良い話ではないがな。
そうじゃな、それでは早速夏侯尚の逸話を見ていくとしようかのう。
人物紹介
江陵攻防戦
まずは江陵攻防戦じゃな。まずは張郃殿の出番じゃな。
呉志『朱然伝』によると222年、夷陵の戦いで劉備を撃退した後、続いて曹丕が呉へ攻撃を仕掛けてきたんじゃよ。
ここで孫権は孫盛を派遣し、一万の兵を率いて、長江の中州(百里州)に四方に防御壁を築いた砦を設け、外から江陵の朱然を応援させたんじゃが、ここで張郃殿の登場じゃ。
張郃殿は兵を中州に渡して孫盛を攻めると、孫盛は支えきれず、瞬く間に退却し、張郃殿はこの中州の砦を分捕って立てこもったんじゃよ。
張郃殿は戦場を選ばずほとんどどこでも活躍していますねえ。この時も渡河して攻めているのですよね。
相手が砦にこもって、こちらの渡河途中の攻撃が大したことなかったからな。さてここからが夏侯尚殿の腕の見せ所だな。
江陵との連絡が断ち切られたことに危機感を感じた孫権は諸葛瑾らを派遣したんじゃが、成果はなかなか上がらんようじゃった。夏侯尚は中州へ渡れる浮橋を作り、中州に陣も設けておったようなんじゃな。ここで潘璋の登場じゃ。
「魏の勢いは現在、上り調子であり、江水も水量がありませんから、まだ戦いを交えるべきではありません。」
そして配下の者たちを引き連れて、魏の陣から上流五十里の地点に行くと葦を刈って数百万の束を作り、それらを縛って大きないかだを作って流れに乗せて火を放ち、浮橋を破壊しようとしたんじゃよ。
しかし増水のタイミングを見計らっていかだを流そうとしたところ、夏侯尚はそれを察知し、速やかに軍を引いた、とあるんじゃよ。
潘璋も呉を代表する名将ですが、彼の意図を見抜き、撤退したのはやはり知略に優れている印象があります。その割に師匠の評価ですと、知謀は少し抑え目の評価なのは何故でしょうか。
うむ、良い所に目を付けたのう。それでは次にこの中州の攻防を別角度から見てみるとしようかのう。
董昭の懸念
この浮橋の件は文帝曹丕の耳にも届いておったんじゃが、皆はこれで江陵は落ちる、と楽観視しておったんじゃ。じゃがここで名臣董昭が次のように言うんじゃよ。
「~前略
もし敵地深く侵入するに当たりましては、帰途をよく考えておくのが当然です。戦には前進も退却もありまして、思い通りにいくとは限りません。
今中州に駐屯するのは、最大の深みに入ることであり、浮橋で渡るのは最大の危険を冒すことであり、一本の通路で連絡するのは、最も狭い道に頼ることであります。
~中略~
その上長江の水は多くなりつつあります。ある日突然増加すれば、どうやって防ぎとめるのですか。たとい賊を破れなくてもなお我が方は安泰であるべきです。
どうして危険を冒しながら、懸念を抱かないのでしょうか。事態は危険に向かっております。どうか陛下にはこのことをご考察ください。」
浮橋の怖さと春の出水を気にしての発言、これがあったからこそ、夏侯尚殿は呉軍の動きに注意し対応できた、と言うことなのだな。
夏侯尚の最後
さて、この夏侯尚じゃが、彼にはお気に入りの愛妾がおり、正妻への愛を奪っておったんじゃよ。この正妻と言うのが曹氏一族の娘であったことから、曹丕は元のさやへ納まるよう、人をやって妾を絞殺させてしまうんじゃ。
じゃが、これに悲嘆した夏侯尚は病気になって、頭がぼけてしまったんじゃよ。
愛妾を埋葬した後、思慕の念が抑えきれず、もう一度墓から掘りだして顔を見る、と言う有様だったようじゃ。
曹丕もさすがにこれを聞いて腹を立てたようじゃが、それでも自分のやったことがきっかけでぼけてしまった夏侯尚に申し訳が立たないと思ったのか、重体になり都に帰還した夏侯尚の邸へ、曹丕は何度も行幸し、手を握り涙を流した、とあるんじゃよ。
じゃが容態が好転することもなく、結局夏侯尚は逝去してしまうんじゃな。
この時代、富貴の方が妾を取ること自体は否定されていなかったはずが、正妻が曹氏一族の娘だったことがこのような事態を招いた、と考えるとちょっと可哀そうですね。
そうじゃな。まあ夏侯尚には夏侯玄と言う優れた息子がおったのが、せめてもの救いじゃろうな。
さて、夏侯尚の紹介はここまでとしようかのう。次は新しい人物の紹介じゃ。またよろしく頼むぞい。
それでは次もまたよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。皆さまもまたよろしくお願いいたしますね。
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