さて、今回も曹芳についての続きを見ていくとしようかのう。まだまだ記録は結構あるようじゃからな、サクサク見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回もまた曹芳の記録の続きについて見ていくとしようか。
どうも、張郃だ。まだ中盤に差し掛かってもいないのではないかな。どんどん話を進めないとな。
そうですね、このままだとだいぶ長くなりそうですからね。
そうじゃな、早速続きを見ていくとしようかのう。
人物紹介
正始六年(245年)
正始六年(245年)春二月丁卯の日(17日)、南安郡に地震があった。
丙子の日(26日)、驃騎将軍の趙儼を司空としたが、夏六月趙儼は逝去した。
八月丁卯の日(19日)、太常の高柔を司空とした。
癸巳の日、左光禄大夫の劉放を驃騎将軍に、右光禄大夫の孫資を衛将軍にした。
冬十一月、太祖(曹操)の霊廟に代々の先祖をあわせ祭り、初めて先に定めた建国の功臣二十一人を祭った。
十二月辛亥の日(五日)、詔勅を下して、亡き司徒王朗が制定した『易伝』を学生たちが官吏登用の受験科目に選べるようにした。
また乙亥の日(29日、大晦日)、太傅(司馬懿)に正月1日群臣を参集させる場合、輿に乗ったまま上殿することを許すよう詔勅を下した。
正始七年(246年)
正始七年(246年)春二月、幽州刺史の毌丘倹が高句麗を討伐し、夏五月には濊貊を討伐し、どちらも撃破した。
東夷の韓那奚ら数十ヵ国がおのおの部族を率いて降伏した。
秋八月戌申の日(6日)および巳酉の日(7日)、困窮した民を開放し、郡県は救済するように詔勅を下した。
正始八年(247年)
正始八年(247年)春二月朔(ついたち)、日食があった。
正始九年(248年)
正始九年(248年)春二月、衛将軍の孫資が癸巳の日(30日)、驃騎将軍の劉放が、三月甲午の日(1日)、司徒衛臻が、それぞれ退官し、諸侯の爵位のまま私邸に帰り、特進の位を授かった。
四月、司空の高柔を司徒とした。光禄大夫の徐邈を司空としたが、固辞して受けなかった。秋九月、車騎将軍の王淩を司空とした。冬十月、暴風によって屋根が飛び、樹木が折れた。
247年にまた日食があったのですね。
この時期は日食が多かったからな。とは言え、この時代には既に予測法がある程度確立していたことから、大きな混乱に至らなくなっていたのも事実だ。
嘉平元年(249年)
嘉平元年(249年)春正月甲午の日(6日)、天子のみくるまが高平陵(明帝の御陵)に参詣した。太傅の司馬宣王が上奏して、大将軍の曹爽、曹爽の弟の中領軍の曹羲、武衛将軍の曹訓、散騎常侍の曹彦を罷免し、諸侯の爵位のまま私邸に帰らせた。
戊戌の日(10日)、担当官吏が上奏して黄門の張当を逮捕し、廷尉に引き渡し、彼の陳述について調べ正したところ、曹爽と一緒になって反乱を計画していた。
これにより曹爽殿の一族は族滅させられた訳だな。ここまで大過なく皇帝を務めていたが、斉王の運命も大きく変わっていくこととなるな。
そうじゃな。それでは今後の曹芳の立場の変化を簡潔にまとめていくとしようかのう。
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