さて、今回紹介するのは曹芳じゃな。彼は魏の三代目皇帝なんじゃ。じゃが、彼については劉禅同様、彼個人の意志や思想がどのようなものであったか、もう一つ分からん人物なのじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹芳の紹介じゃ。魏の三代目皇帝じゃな。
実は彼の時代に関してはあまりよく知らないのですよね。演義とかでもさらっと話は流れていくじゃないですか。
確かに蜀も気が付いたら姜維が事実上のトップになっていて、となるが、この時代はもう曹芳が皇帝ではなくなっているんじゃからのう。
ふむ、それでは今日はどう言う感じにまとめていくかな?
そうじゃな、まず今日のところは彼の能力評価と共に、年代順に彼の時代に起こった出来事などをまとめていくとしようかのう。それと共に、彼の実像が見えてくればそれを次回以降、紹介しようと思うんじゃ。それでは見ていくとしよう。
能力評価
さて、それでは彼の時代の記録について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
それでは魏志『斉王紀』から年代ごとの重の記録を見ていくとしようかのう。
青龍三年(235年)
青龍三年(235年)、斉王に立てられた。
景初三年(239年)
景初三年(239年)正月丁亥、朔(12月1日)、明帝が重体となった。そこで斉王を立てて皇太子とした。同日、皇帝の位に就き、大赦を行い、皇后に皇太后の尊称をたてまつった。
二月、西域から幾重にも通訳を重ねて、火浣布を献上してきたので、大将軍と太尉に詔勅を下し試験に立ち会わせ、百官に披露した。
三月、征東将軍の満寵を太尉とした。
夏六月、遼東の東沓県の官民が海を渡って斉郡の辺境に住み着いたため、元の縦城県を新沓県として、その移民を居住させた。
秋七月、天子(斉王芳)は初めて自ら朝会に出席し、公卿の上奏を聞いた。
八月、大赦を行った。冬十月、鎮南将軍の黄権を車騎将軍とした。
正始元年(240年)
正始元年(240年)春二月、侍中中書監の劉放、侍中中書令の孫資に左右光禄大夫の官職を付加した。
丙戌の日(六日)遼東の汶県・北豊県の民衆が海を渡って逃亡してきたため、斉郡の西安県・臨菑県・昌国県の境域を区切って新汶県・南豊県とし、流民を居住させた。
前年の冬十二月この月(三月)まで雨が降らなかった。
夏四月、車騎将軍の黄権が逝去した。
正始二年(241年)
二年(241年)春二月、帝は初めて『論語』の勉強をされ、太常に命じて、太牢の犠牲(牛・豚・羊)を捧げて孔子を辟雍(天子の建てた太学)で祭らせ、顔淵を合わせ祀った。
夏五月、呉の大将軍朱然らが襄陽郡の樊城県を包囲したため、太傅の司馬宣王は軍勢を率いてこれを防いだ。
六月軍を引いた。征東将軍の王淩を車騎将軍とした。冬十二月、南安郡に地震があった。(『斉王紀』)
うーん、本当に事績の羅列ばっかりですね。
まあ、斉王殿自身がまだ十歳にも満たない幼児であるからな。彼自身の意志のようなものが見えなくとも仕方あるまい。
そうじゃな、なかなかボリュームがあるので、一旦ここで切って、次回以降に詳細を見ていくとしようかのう。
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