三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹芳(そうほう) 字:蘭卿(232~274)その2

さて、今回は曹芳の情報についての続きを見ていくとしようかのう。思ったよりも記録が多くてちょっと編集するのも大変じゃな。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹芳の記録の続きについて見ていくとしようか。

どうも、張郃だ。昨日はどうしたのだ?てっきり続きは昨日やると思っていたが。  

うむ、実はテキスト入力中、肘の机に当たる部分にできものができてのう。テキスト入力する度に気になって入力できんかったんじゃよ。

そんなに痛んでいたのですか。もう大丈夫なんです?

とりあえずできものを強制的に取り除いて、洗浄した後、絆創膏を貼っておったおかげで、今日はだいぶましじゃな。気になることもほとんどなくなったんじゃよ。

まあ、不摂生がたたっているのであろう。もう少し健康に留意することだな。 

う、うむ、気を付けるぞい。それでは早速続きを見ていくとしようかのう

人物紹介

正始三年(242年)

正始三年(242年)春正月、東平王曹徽が逝去した。

三月、大尉の満寵が逝去した。

秋七月甲申の日(18日)、南安郡に地震があった。乙酉の日(19日)、領軍将軍の蒋済を大尉とした。

冬十二月、魏郡に地震があった。

正始四年(243年)

正始四年(243年)春正月、帝は元服され、並み居る臣下にそれぞれ格差をつけて、下賜品を賜った。

夏四月乙卯の日(24日)、皇后に甄氏を立て、大赦を行った。

五月朔(ついたち)、日食があり、皆既であった。

秋七月、詔勅を下して、今は亡き曹真・曹休等臣下を太祖(曹操)の霊廟の堂前の広場に祭った。

冬十二月、倭国の女王卑弥呼が使者を派遣して、捧げものを献上した。

あら、ここで卑弥呼の登場なんですね。

今も本拠地が議論の的となっている、倭国の女王だな。239年に司馬懿が遼東の公孫氏を滅ぼしたことで、使者の派遣が可能になったことが大きいのであろうな。

正始五年(244年)

五年(244年)春二月、大将軍の曹爽に詔勅を下し、軍勢を統率させ蜀を討伐させた。

夏四月朔(ついたち)、日食があった。

五月癸巳の日(八日)、帝は『尚書』を終わりまで学び、太常に命じて、太牢の犠牲(牛・豚・羊)を捧げて孔子を辟雍に祭らせ、顔淵を合わせて祭った。太傅(司馬懿)、大将軍(曹爽)、および講義をした侍講者にそれぞれ格差をつけて下賜品を賜った。

丙午の日(21日)、大将軍曹爽が軍隊を引き連れて帰還した。

秋八月、秦王曹詢が逝去した。

九月鮮卑族が内属してきたので、遼東属国を設置し、昌黎県を作って、ここに居住させた。

冬十一月癸卯の日(21日)、詔勅を下して、亡き尚書荀攸を太祖の霊廟の堂前の広場に祭った。巳酉の日(27日)、秦国を元通り京兆郡とした。

十二月、司空の崔林が死去した。

この頃は日食が多いな。243年、244年と連続して発生している。それと斉王殿は僅か12、3歳で『尚書』を学んでいる。理解力がどの程度か、と言う部分はあるが、無能とは言えないのではないか? 

そうじゃな。さて、もう少しこの時期の記録について続けていこうかのう。もう少し続きますがよろしく頼みますぞい

 

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