三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹芳(そうほう) 字:蘭卿(232~274)その4

さて、今回は司馬一族が曹爽一族を滅ぼし、権力を握って以降の曹芳と司馬一族の絡みを見ていくこととしようかのう。。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹芳と司馬一族の関係を見ていくとしようかのう。

どうも、張郃だ。ここから徐々に斜陽の時代へと移っていくのだな。  

魏から晋へと移っていく、ここが分岐点となる訳ですね。今回で終われそうでしょうか。

出来ればそうしたいが、多分もう一度ぐらいあるじゃろうな。それでは続きを見ていくとしようかのう

人物紹介

嘉平二年(250年)

嘉平二年(250年)十二月乙未の日(18日)、征南将軍の王昶が長江を渡って、呉を急襲し、これを打ち破った。

嘉平三年(251年)

嘉平三年(251年)春正月、荊州刺史の王基、新城太守の州泰が呉を攻撃し、これを撃ち破ったところ、降伏者は数千人に及んだ。二月、南郡に夷陵県を設置して、降伏してきた者を居住させた。

三月、尚書令の司馬孚を司空とした。

丙午の日(五月二日?)大尉の王淩が帝を廃して、楚王曹彪を擁立しようと計っているとの情報があり、太傅司馬宣王(司馬懿)が東へ向かい王淩を征伐した。五月甲寅の日(10日)、王淩は自殺した。六月、楚王曹彪は死罪に処せられた。

七月辛未の日(28日)、司空の司馬孚を大尉とした。

戊寅の日(八月五日)太傅の司馬宣王が逝去し、衛将軍の司馬景王(司馬師)を撫軍大将軍、禄尚書事。

嘉平四年(252年)

嘉平四年(252年)春正月癸卯の日(二日)、撫軍大将軍の司馬景王を大将軍とした。

冬十一月征南大将軍の王昶、征東将軍の胡遵、鎮南将軍の毌丘倹らに詔勅を下し、呉を征伐させた。

十二月、呉の大将軍諸葛恪が防戦して、東関において多くの魏軍を散々に撃ち破った。戦い利なく帰還した。

嘉平五年(253年)

嘉平五年(253年)夏五月、呉の大将軍諸葛恪が合肥の新城を包囲したため、大尉の司馬孚に詔勅を下してこれを防御させた。秋七月、諸葛恪が撤退した

嘉平六年(254年)

嘉平六年(254年)庚戌の日(22日)、中書令の李豊は皇后の父張緝らと結託して大臣を更迭し、太常の夏侯玄を大将軍にしようと計画した。

事件は発覚し、関係者一同はことごとく誅殺された。三月皇后の張氏を廃した。

秋九月、大将軍の司馬景王が帝の廃位を計画し、皇太后にその旨申し上げた。

甲戌の日(19日)、皇太后は命令を下した。

「皇帝芳は既に青年に達しているのに、政治に携わらず、気に入りの婦人に耽溺して、女色に沈淪し、毎日毎日役者を引き入れ、醜悪な戯れをほしいままにしている。

後宮の女たちの縁戚の婦人を迎えて内殿に留め置き、人の踏み行うべき秩序を打ち壊し、男女の節度を乱している、孝養と恭順は日々に失われ、道理にもとる傲慢さはますます甚だしくなっている。

これでは天の命じたもうた大業を受け継ぎ、先祖の霊廟をいただいていくことは不可能である。兼太尉の高柔に命令書を持たせ、牛を犠牲に捧げて先祖の霊廟に報告させて、芳を斉に帰還させて、皇位にいることをひかえさせる。」

この日、帝は別の宮殿に移住した。時に二十三歳。

随分な言われ様ですね。本当にこんな人物だったのでしょうか。

斉王殿が成人前に自分は亡くなっているから、実際は分からんが、まあ普通に考えて李豊達の反乱のけじめを取らされた、と見るのが自然であろうな。だからこの命令が事実、と思わん方が良いだろう。

そうじゃな。これで大体一連の流れの説明は終わりじゃ。次が最後となるであろうが、曹芳がどんな人物であったか、それが伺えそうな部分についてピックアップしようかのう

 

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