さて、今回は陸胤の紹介の続きじゃな。前回紹介できなかった陸胤のエピソードなどについて見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は陸胤の内容について、もう少し突っ込んだ内容を見ていくとしようかのう。
と言うことはあの逸話にも首を突っ込むのか?あれは演義同様後世の創作の可能性が非常に高いと思うがな。
張郃さんは既に何の話かも分かっているようですが、私は全然ですね。
まあ、歴史の裏側、モノ好きでなければ知りようもない話だからのう。さて、それでは追加エピソードの開幕じゃな。
人物紹介
交州における反乱討伐
時は赤烏十一年(248年)、交阯や九真の異民族の不穏分子に対応するため、陸胤を交州刺史・安南校尉に任じた頃のことじゃ。この時期
後にはまた、蒼梧や建陵の反乱者達を討伐して、これを撃ち破り(『陸凱伝』)
と三国志にはあるが『Wikipedia』によると、この反乱者の中に趙嫗(ちょうおう、別名で趙氏貞)と言う女性の指導者がおったらしいんじゃな。
三国志本文に書かれていないことから真偽は不明だが、彼女は当時20歳前後とうら若き乙女だったにも関わらず反乱軍のカリスマ的指導者だったらしく、身体的特徴として晋時代劉欣と言う人物の記録した『交州記』によると、乳房の長さが数尺もあった、とのことなんじゃな。
す、数尺と言わると、1尺はこの時代どれぐらいの寸法だったのでしょうか。
そうだな、お主の師匠の上履きの寸法が丁度1尺とちょっと、といった程度だな。
となると25㎝より少し小さいぐらいですね。2尺ってことはないでしょうから、1m近い長さと言うことですか・・・(ううん、どんな姿か、想像がつかないですね)。
さて、この反乱軍は手ごわく、陸胤も正攻法では被害が出る、と睨んだのか、奇想天外な戦術で対応したのだ。
陸胤は趙嫗が生娘であることを知って、(兵士を)全裸にさせ、彼女が恥ずかしがった撃ち破った(『Wikipedia』引用『大南一統志』)
・・・・・・・イヤイヤイヤ、いくらなんでもそんなことありますか?
落ち着け、この『大南一統志』は阮朝(現ベトナム)の時代(1802~1945)に書かれたモノ、このような突拍子のない話は以前には一つも見られなかった訳だ・・・つまり、
創作である可能性が高いと、張郃さんが冒頭に言っていたことに繋がる、と言う訳ですか?
そう言うことだ、歴史書は多分にそれを創った当時の王朝の思惑などが含まれ、真実から乖離した逸話も盛り込まれることは多々ある。三国志とてそれは例外ではない。
今回のような、常識から逸脱した逸話が出てくるのも、まあ歴史のだいご味だ、ぐらいに思って笑い飛ばしてしまえば良い。
はーっ、それにしてもちょっとびっくりしました。こんな話を聞くなんて、ちょっと衝撃ですね。
だからこそ歴史書に書かれていることを全て鵜呑みするのではなく、適度に距離を保った位置で、客観的に見れるぐらいになっておくぐらいでちょうど良いのだ。
お主の師匠は・・・ちと手遅れかな。
まあ、ワシの場合は三国志にどっぷり浸かって色々思い入れのある人物とかできてしまったからのう。今更フラットな目線で物事を見ると言うのはなかなか難しいじゃろうな。
とは言え、ワシの敷くルールから逸脱はしないように、これからも務めていくぞい。さて、陸胤の紹介じゃが、あと一つ紹介したい話があるので、もう一回続きそうじゃな。次もよろしく頼むぞい。
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