さて、今回は孫英の紹介じゃな。彼は孫権の後継者として皇太子であった、孫登の次子に当たる人物なんじゃ。そのまま行けば彼も孫登の次の代の天子になる可能性もあったんじゃが、諸々の悲劇が重なり、彼は若い命を散らすこととなるんじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は孫英の紹介じゃ。彼は孫登の次子に当たる人物なんじゃよ。
孫登はゲームとかにも出てきて、結構有名な人物ですよね。悲劇の人物と言いますが、一体何があったのでしょうか。
まずは皇太子であった父孫登が、孫権より先に亡くなってしまった点だな。更にそれ以上の悲劇が孫英には降りかかるからな。
具体的な話は能力評価の後に紹介していくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
さて、それでは孫英についての記述を見るとしようかのう。
(孫登の死後)次子の孫英が呉侯に封ぜられた。五鳳元年(254年)、孫英は大将軍の孫峻が権力をほしいままにしていることから、孫峻を誅殺しようと企てたが、事が発覚して自殺をし、封国も除かれた。(『孫登伝』)
孫和が(孫峻によって)無実の罪で殺されると、一般の人々までも憤激と哀痛の心を抱いた。前司馬の桓慮は、そうした気持ちに乗じて部将や官吏たちを糾合し、共謀して孫峻を殺して代わりに孫英を立てようと企てた。
事が発覚して関係者は皆殺されたが、孫英は実はその謀りごとは与り知らなかったのである。(『孫登伝』裴注『呉歴』)
え、あれ!?もしかして孫英は巻き込まれた側だったんですか?
そう、それだけ孫峻に対する憤りと、その逆に孫英に対する期待があったのだろう。恐らくその辺りを加味して、お主の師匠は統率を高くしたのであろうな。
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簡単解説
いや、なんかちょっといたたまれないですね。まだ若かったんですよね?
父の孫登が209年生まれだからな。早くても230年前後ぐらいの生まれであろうから、254年ならば間違いなく20代であろうな。
それだけ若かった訳ですから、謀議を主導と言うのもなかなか難しい話ですよね。
父の孫登は記録を見る限りかなり優秀であったから、孫英に期待する気持ちもわかるがな。父が余りにも早くに亡くなって、孫英はあまりにも若すぎたな。
この孫英の事件は魏の夏侯玄を少し思い起こさせるのう。どちらも後味の悪い話じゃな。
さて、孫英については非常に残念な話じゃったが、今日はここまでじゃな。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは自分も帰るか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。