さて、今回紹介するのは笮融じゃな。仏教発展に貢献したと言われる人物じゃ。
じゃがその事績を見ていくと、とてもほめられたものではないようなんじゃよ。彼が仏教界でどんな評価を得ているのかまでは分らんが、彼の事績をまずは見ていくとしようかの。
さて、今回は笮融の紹介じゃな。なかなか癖の強い人物じゃよ。
仏教の発展に貢献した人物と聞くと高潔なイメージがあるのですが、そうではないのですか?
そうじゃな、彼の実績を見ていると日本のある戦国武将に思いが到るんじゃ。お主、大友宗麟はしっておるか?
名前は確か、九州三国志の一角を担ってた人物ですよね?
そうじゃな、大友宗麟は九州におけるキリスト教布教に貢献しており、当時のイエズス会の日記等に書かれた彼の評判はそんなに悪くないんじゃ。じゃが彼にはその一方で暴君的側面があるんじゃよ。
そんなにひどいことをしていたのですか?
一つは女色を好み、人妻を奪い取ったりしたこと。もう一つは仏教を敵視し、寺社仏閣を破壊し、僧侶や神職を虐待した点じゃな。じゃがそれがために兵士たちの士気は上がらず、耳側の戦いで島津に大敗してしまうんじゃよ。暴虐度合いでは、笮融は彼以上かもしれんがの。まあ物事は一方面からだけでは見れない良い例じゃな。
どれだけのことをやらかしているんでしょうか・・・紹介の方お願いします。
人物紹介
陶謙配下として
さて、笮融じゃが、彼は元々揚州の丹陽の人じゃ。
そんな彼じゃが数百人の人を集めると徐州へ赴き陶謙に身を寄せるようになるんじゃよ。どう言う経緯があったのかは分からんが、陶謙は彼を受け入れるんじゃな。
そして陶謙は彼を広陵や彭城における物資運漕の仕事の監督に当たらせたと言うんじゃ。徐州南から揚州にかけては河川や湖も多いので、揚州丹陽出身の岝融はうってつけ、と思ったんじゃろうな。じゃがこれが大間違いだったんじゃ。
笮融は勝手なふるまいをし、ほしいままに人を殺し、三郡の貢納物を徐州に送らずに、己の懐に入れた、と言うんじゃ。かなりえげつない事をやっておるのが分るじゃろう。
蓄えた資産の使い道
さてそうやってため込んだ資産を彼はどうしたのか、と言うとこれが仏教興隆のためだったりするんじゃ。
大々的に仏教寺院を造営し、銅で人の形を作ってその体に黄金を塗り、鮮やかな着物を着せたんじゃ。
こうやって建てられた建物には三千人以上の人を収容することができた、とあるからかなりの規模と言えるのではなかろうか。
仏道に心を向けるものには出家を許し、一般の賦役を免除して寺に人を集めるようにした結果、遠近よりやってくるものが合わせて五千余戸にも上ったそうじゃ。
間違いなくこの頃が笮融の絶頂期だったと言えるようじゃな。
広陵での大罪
じゃがこの後彼の運命は大きく変わる。曹操の襲来じゃよ。曹操が陶謙と戦いだし、己の身の回りにも火の粉が降りかかってきそうになってきたことで、笮融は逃げ出すんじゃな。向かった先は徐州南部の広陵で、ここの太守であった趙昱を頼るんじゃ。
趙昱はなかなかの人物だったんじゃが、残念なことに笮融の人間性までは見抜けなかったようなんじゃ。
趙昱は彼を賓客として礼遇してしまったんじゃよ。そして笮融は広陵が繫栄していることに目を付けて・・・酒宴がたけなわとなった時に趙昱を殺害するんじゃ、何と言うことじゃろうか。
彼は自分が連れてきた兵を放ち(広陵に向かった際、男女一万と馬三千匹を引き連れた、とあるんじゃ)、大略奪を行い、そのまま奪ったものを車に積んで広陵を去ったんじゃ。向かった先は南方の秣陵じゃ。故郷丹陽の近くじゃな。
当時秣陵には陶謙の圧を避けて彭城の相であった薛礼が避難しておったんじゃが、行きがけの駄賃とばかりに薛礼も殺害してしまうんじゃよ。
劉繇の下で
さて、南方に避難した笮融じゃが、この頃劉繇が揚州刺史となっており、笮融はそのまま劉繇配下となっておるんじゃな。
岝融の悪評は知らぬはずとも思うんじゃが、劉繇が受け入れたのは袁術との戦いで少しでも戦力が欲しかったからかのう。
実際兵の少なかった太史慈は、発言力がほぼないに等しかったからのう。
じゃが結局笮融の悪癖は治らんかったようじゃな。孫策と戦い敗れると劉繇は豫章を根拠地として孫策に対抗しようとするんじゃ。
この時豫章は劉表が太守に任命していた諸葛玄と、漢朝廷が任命しておった朱皓とが争っていたんじゃよ。笮融は劉繇の先駆けとして向かうんじゃが、この時笮融が本性をむき出しにするんじゃ。
『献帝春秋』によると、この時許劭は劉繇に進言するんじゃ。
「笮融が軍を率いていきましたが、彼は大義名分などに目もくれぬ男です。朱文明どのは誠実で人を疑ったりせぬ方ですので、ひそかに笮融には気を付けるように知らせるのがよろしゅうございます。」
じゃが結局連絡は間に合わず、朱皓は笮融に殺害され、取って代わられるんじゃな。
ここに到り劉繇は激怒して笮融を攻撃し、一度は破られるものの再度戦いを挑んでついに笮融を打ち破るんじゃ。笮融は山中に逃げ込んだんじゃが、付近の住民に殺害されたと言うんじゃ。
波乱の彼の人生の終幕じゃな。最後の彼は仏教に対し、どう思っておったんじゃろうな。
そしてここで何気に名前の出てきた人物、諸葛玄と朱皓じゃが奇妙な接点じゃのう。諸葛玄は諸葛亮の叔父に当たり、徐州から避難してきた彼等の育ての親でもあるんじゃ。
そしてもう一人の朱皓じゃが、彼は黄巾賊討伐で功績を上げ、皇甫嵩と並び後漢を代表する名将朱儁の息子なんじゃよ。
さて、余談はここまでじゃな。笮融の人物紹介もここまでじゃ。続いて能力評価と行くぞい。今回は全作品に出演しているのう。
能力評価
笮融は仏教の発展のため、多数の信徒を集めたことなどから、張角程とはいかないまでもカリスマ性と政治力、それぞれ統率と政治を評価したんじゃ。
じゃがその集金のやり方や己の権力のためになりふり構わずに人を殺害するなどの暴虐な面を見せておるため、知謀は最低ランクとさせてもらい、また政治力も少し抑えめとさせてもらったぞい。
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雑談ぢゃ
さて、笮融の能力評価じゃ。彼の評価は難しいのう。
三国志14ですと魅力がすごい低いですね。逆に師匠の統率と天舞さんの人徳は高いですね。仏教発展の貢献に対する評価になるんですかね。
そうじゃな、天舞さんはちゃんと正史の事績を追いかけているように思えるのう。
演義だと笮融はそこまで悪辣な人物像としては描かれていないですよね。それにしては三国志14と鄭問之三國志は低いですね。
まあ人道的にはかなり残念な人物なのは確かじゃからなあ。こればかりは低い評価になるのも仕方ない、とも思えるからのう。さて、お騒がせ人物、笮融の紹介じゃったが、どうじゃったかのう。面白かったならば次もまたご覧くだされ。
良ければ次もご覧ください。それと他の方で興味ある方がいらっしゃったら、以下の索引をご覧くださいね。