さて、今回紹介する人物は繆尚じゃな。字や生没年は不明じゃ。彼は張楊の長史だったんじゃ。彼にはそれ以外にもちと重要な役割を担っておったようじゃ。
どうも、くまの爺じゃよ。さて、今回紹介する人物は薛洪じゃな。彼も繆尚と共に何度か名前が出ているんじゃよ。
どうも、張郃です。薛洪殿か・・・彼は結構重要な人物だな。
上でも書いていますね。気になります。
ふむ、まあそれではぼちぼち紹介と行こうかのう。
よろしくお願いします。
人物紹介
さて、薛洪についての紹介じゃが、彼の出番は繆尚と同じ2か所、と見えて実はもう1ヶ所あるんじゃよ。以下は繆尚と同じ内容じゃ。
魏志『武帝紀』によると199年、張楊を楊醜が殺害し、その楊醜を眭固が殺害し、袁紹配下となった時じゃ。
この時曹操は曹仁と史渙に眭固を攻撃させるんじゃ。この時眭固は張楊の元長史の薛洪と当時の河内太守の繆尚を射犬に留めて守らせ、自らは袁紹に救援を求めようとしたんじゃ。じゃが、彼は犬城で曹仁達と会戦になり、斬られてしまうんじゃな。
曹操は黄河を渡り、射犬を包囲すると、薛洪と繆尚は軍勢を率いて降伏したんじゃ。曹操は彼らの降伏を受け入れて列侯に任じた、とある。
この部分の詳細な内容が魏志『董昭伝』に書かれておるんじゃ。
ここで薛洪と繆尚は城を固守して、袁紹の救援を待っておったんじゃ。そこで曹操は董昭に命じて単身城に入らせ、薛洪と繆尚を説得させ、その日の内に彼らは軍勢を挙げて降伏した、とあるんじゃ。
さて、繆尚の出番はここまでじゃが、薛洪に関してはもう1ヶ所あるんじゃよ。彼の出番は意外なところじゃな。
魏志『武帝紀』によると213年に、曹操に対して魏公就任の動きが起こるんじゃな。献帝からの辞令書に対し、曹操は都合三度にわたって辞退するんじゃ。
この時にこの辞令を受諾するよう、主だった臣下が勧めるんじゃが、実はこのメンバーの中に薛洪も入っておるんじゃ。それも「軍師祭酒」・千秋亭侯の董昭に続いて都亭侯の薛洪の名前が挙がっておるんじゃ。亭侯は爵位なので、官位は不明なんじゃが、薛洪の少し後に王粲が出てくるんじゃが、彼はこの時「軍謀祭酒」となっておるんじゃ。
「軍師」と「軍謀」の違いはあるが、ちくまさんではこれは同列扱いとしておるので、つまり、董昭から王粲までは軍師祭酒だった、と考えられるんじゃ。
ちなみに史書を見ると、裴松之注釈の『魏書』が「軍師祭酒」となっており、王粲伝では「軍謀祭酒」となっている。恐らくこれは晋王朝の礎を築いた司馬師の諱「師」を使わないように陳寿が変えたのではないかな。
確かに注釈の方の『魏書』が晋王朝以前に作られていたとするなら、そう言う名前を気にする必要はないから、そのまま軍師を使った可能性もありますかのう。ただ、これは他でも『師』が使われていないかを確認しないと、何とも言えんのう。
ちと脱線してしまったが、彼は曹操陣営の頭脳とも言うべき参謀集団の中に位置しておった可能性が高いんじゃ。この時点で王粲の上にいると言うのも、なかなかにすごい話じゃと思うぞい。とは言え、220年の曹丕を皇帝に、と言う上尊号碑には彼の名前は見当たらんことから。213年から220年の間に亡くなっているのではなかろうか。
さて、薛洪の紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行くぞい。今回はワシの評価のみじゃな。
能力評価
薛洪に関しては曹操に降って後は軍祭酒として、ブレーンの一人として魏国内での謀議にあずかっておったようじゃ。そのことから特に知謀を高く評価しておるんじゃ。政治は実績がないのである程度の評価。軍事面は抑え目の評価としたんじゃよ。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
雑談ぢゃ
さて、薛洪についての能力評価じゃな。
ふむ、張楊殿の下で長史だったのもどちらかと言えば文官として評価した、と言う感じなのだな。
一応、昨日書いた通りじゃな。じゃが軍祭酒だった、と言う情報は今日調べて気が付いたので、どちらかと言えば知謀がより克った評価としたんじゃよ。
知謀の高い人物が一人加わったことで張楊陣営も一本芯が通った感じですね。
確かに、軍事・統率、知謀と人物が揃った感じだな、となると後は政治家か、とはならんのだろうな。
そうじゃな、張楊陣営はあと一人で終わるからのう。しかも彼はどちらかと言えば武官じゃからのう。とは言え政治は平均的に高いから、何とかなるじゃろう。さて、今回はここまでじゃな。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとしよう。次もよろしく頼むぞ。
張郃さん、お疲れ様です。次もよろしくお願いしますね。それと他の人物を見たいときは以下の人名索引を参照してくださいね。