さて、今回は劉虞の一族、息子である劉和の紹介じゃな。字や生没年は不明。彼は漢の朝廷におったため、劉虞の死に目には会えんかったようじゃ。劉虞亡き後、彼はどうしたのか見ていくとしようかのう。
さて、今回は劉和の紹介じゃな。うえでは「りゅうわ」と読んでいるが、「りゅうか」と読んでいるところもあるようじゃな。
どうも、張郃だ。父の死に目に会えなかったのは残念であったろうな。
張郃さんは劉和と会ったことはあるのですか?
劉和殿は、袁紹殿の下に留まり、公孫瓚討伐時には指揮を執ったりもしている。そんなことから、何度も軍議の場で顔を合わせることがあったのだよ。
劉和の場合、それまでが紆余曲折あったからのう。献帝の命で劉虞へ向かおうとして、袁術に足止めを食らい、その後袁術の下を脱出するも、また袁紹の下で足止めを食らっておる。
能力評価
さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。
軍事
魏志『公孫瓚伝』を見ると、袁紹は公孫瓚と戦うにあたり、麹義と劉虞に軍兵を指揮させ、鮮于輔と合流して公孫瓚を攻撃させた、とあるんじゃよ。
指揮官とは言え、劉和殿は最前線で自ら剣を振う立場ではないことから、軍事はどちらかと言えば、抑えめの評価なのだな。
統率
こちらは軍事と違い、劉虞同様に人望があり、また指揮官として一定の評価があった、と考えられることから、少し高めの評価としたんじゃよ。
そう言われると父親の劉虞も人望が高いから、と言うことで統率は少し高めの評価になっていましたね。劉和の評価もそれに倣ってのことですね。
知謀
元々献帝は董卓から逃れて洛陽に帰還しようとして、劉虞に兵を出して迎えに来させるよう、劉和に依頼しておったんじゃが、劉和はそのことを袁術に話したため、袁術はそれを利用して劉虞の兵を吸収しようと策を巡らせるんじゃ。また公孫瓚はその策を利用して、劉和を捕えようとしたようじゃ。じゃがさすがにそこからは逃れたようじゃな。
袁術と公孫瓚に翻弄されたことから、知謀に関しては少し抑えめとした訳だな。
政治
政治面に関しては特筆すべきことはないんじゃが、後漢朝廷で侍中を務めていたことや、父が政治家として有能だったことから、知謀よりも高めの評価としたんじゃよ。
ここも統率と同様、父の評価に倣っている、と言うことですね。ただ実績がないことから、少し抑え目にはなっているのですね。
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簡単解説
それにしても記録がほとんど残っていないのは残念ですね。
そうだな、公孫瓚との戦いの後・・・劉和殿はどうなっていたかな。
そう言えば袁紹は劉虞を皇帝にしようとしていたようですが、劉和にも同じことをやろうとは思わなかったのではないでしょうか。
あの頃袁紹殿は、既に献帝を曹操から奪うことを考えていたから、劉虞殿を皇帝にしようとしていた時期とはもう情勢が違っていたのだ。
そうじゃな、もし劉和を新たな皇帝にするとしても、それは恐らく献帝を手に入れて、献帝の処遇を決めてからの話じゃろうからな。さて、そんなところで今日はこれにて終わりじゃな。
よし、それでは自分も戻るとするかな。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。