さて、今回は曹冏の上奏文について見ていくとしようかのう。さすがにボリュームがすごいことから、重要そうな個所をピックアップしていこうと思うんじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回曹冏の上奏文について見ていくとしようかのう。
どうも、張郃だ。全文掲載ではないのだな。まあ全文は大変だからな。
全文掲載だと、そんなに多くの量になるのですか。
そうだな、ざっと見た感じ、文字数で5千文字以上になるのは間違いないだろう、書籍でも数頁に渡る長文だ。
そうなんじゃ、さすがに全文を載せるのはしんどいので、重要そうな部分をピックアップしていくつもりじゃ。内容が難しい部分の解説も、ワシの分かる範囲でしていくぞい。
わかりました。よろしくお願いします。
人物紹介
当時の皇族の扱い
魏志『武文世王公伝』の裴松之注『袁子』によると当時の皇族の扱いは次のようだったんじゃよ。
魏の初めは大動乱の後を受け、人民が減少しており、古代を規範とする訳にはいかなかった。そのため、侯王を封建する場合、全て領地に寄住させるだけで、虚名はあってもその実質はなかった。
王国には老兵百余人を持たせて、その国を守らせた。王侯の称号はあったけれども、結局は平民の男と等しかった。(朝廷から)千里の彼方に遠く隔てられ、朝聘の儀礼はなく、隣国同士が会合する制度もなかった。
諸侯が遊山や猟に出かける場合も三十里を越えることは許されなかった。また、彼らに対して防輔と監国の官を設けて監視した。朝廷の藩屏とする建前に反している上に、親戚骨肉としての恩愛にも欠けていた。
これが魏の皇族・・・実際に読んでみるとかなりひどい扱いだな。
王侯となっても実質名前だけと言う感じですね。漢のように国を与えられているわけでもないですし、捨扶持しか与えられていないんじゃないですか。
確かにこれで皇帝に反逆する皇族などは現れまい。ただ、逆に言うと何かあった時に皇帝を守れる皇族が皆無なのも確かだな。
そしてそれを変えるために曹冏が動いた、と言うことだな。
曹冏の上奏文について
魏志『武文世王公伝』の裴松之注『魏氏春秋』に曹冏の上奏文は乗っているんじゃよ。
臣(わたくし)は、古代の王者は、必ず同姓を立てて親族に親しむ態度を明らかにし、必ず異姓を立てて賢者を賢者として尊敬する方針を明らかにした、と聞いております。
まずは親族と異性の賢者、どちらも用いることを説いているのだな。
それゆえに『伝』に
『勲功ある者を用い、親族に親しみ、近くの者と睦まじくし、賢者を尊敬する』(『春秋左史伝』僖公二十四年)
と言い、『尚書』に
『よく優れた徳を持つ人物を明らかにし、よって九族を睦まじくする』(堯典)
と言い、『詩経』に
『徳をやわらげ維れ寧んぜよ、宗子はこれ城なり』(大雅・板)
と言うのです。
何となく言いたいことは伝わってきますが、もう少し具体的な内容にかみ砕いて欲しいですね。
ふむ、それは次に載っているから、続けてみていくとしようかのう。
これから見ますと、賢者でなければ協力して勲功を立てることはできず、親族でなければ協力して政治を助けることはできません。
そもそも、親族に親しむ道がもっぱら用いられた時、その積み重なった結果は衰弱であり、賢者を賢者として尊ぶ道が一方的に使われた時、その悪い結果は政権奪取であります。
ここでは親族だけを重く用いた場合は国家が衰弱していき、異性の賢者のみを用いた場合は政権奪取の恐れがあることを示唆している訳だ。
どちらかに極端に偏るのではなく、どちらも同様に用いることが必要と言っているわけだな。
そう言うことじゃな。後の司馬氏の専横からの帝位簒奪を見通したかのような意見じゃななかなかの慧眼と言えよう。
さて、実はここまで書いて、まだ序文の序文なんじゃが、今日のところは一旦ここまでとしようかのう。良ければ次もまた御覧くだされ。
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