さて、今回は曹叡の息子であり、本来なら彼の後を継ぐ予定であったと思われる曹冏の紹介じゃな。とは言え226年と相当早くに亡くなっているようじゃな。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹冏の紹介じゃな。上でも書いているように曹叡の息子で皇太子になっていたかもしれない人物じゃ。
どうも張郃だ。明帝はいくつか説があるが206年生まれと考えられている。226年、明帝はまだ二十歳前後と言うことになるな。
早くに夫人をもらっていたとしても、226年時点の曹冏は五歳を超えていなさそうですね。それにしても姓名の所に「1」の文字が入っていると言うことは・・・。
うむ、もう一人曹冏と言う人物がおると言うことじゃな。そちらはまた別に紹介するので、まずは皇太子曹冏について見ていくとしよう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・知謀・統率・政治
黄初七年(226年)八月、辛巳の日(十二日)息子の曹冏を立てて清河王とした。
~中略~
冬十月清河王の曹冏が死去した。
記録として残っているのはこれだけじゃな。
事績を残す前、幼くして亡くなっていることから、評価は全体的に抑えめだな。
上の能力って20歳辺りを基準として能力が伸びているのだから、亡くなった時はもっと能力が低いと言うことですか。
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簡単解説
そう言えば統率が高いのは父の影響を考慮しているのですかね。
皇族故、と言う感じはあるな。大体能力的に記録がなく評価が難しい、例えば劉禅とかもそういった傾向を持っているから、同じ理由であろうな。
うむ、記録がない場合はある程度決めごとを作っていくしかないからのう。さて、それでは今回はここまでじゃな。良ければ次もまたよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。