さて、今回紹介するのは曹敏じゃな。彼は曹均の息子なんじゃが、彼の跡は継がず、別の一族の跡を継いだようじゃな。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹敏の紹介じゃな。曹均の息子と言うことだが、覚えているかのう。
確か曹操の弟の曹彬の跡を継いだ人物ですよね。
曹均殿は219年に亡くなっているから、曹敏殿はその前に生誕しているはず。同世代の一族中では比較的年長の部類だったのではないか。
そうじゃな、それでは能力評価から見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
曹敏について記録に残っているのは以下の通りじゃ。
范陽の閔王曹矩は早死にし、子がなかった。建安二十二年(217年)、樊の安公曹均の子の曹敏に曹矩の後を継がせ、臨晋侯に取り立てた。
黄初三年(222年)、領国と諡号を曹矩に追贈して范陽の閔公とした。
五年(224年)、改めて曹敏を范陽王に取り立てた。七年(226年)、句陽(こうよう)に国替えされた。太和六年(232年)、改めて曹敏を瑯邪王に取り立てた。
景初、正元、景元の間に何度も加増され、前と合わせて三千四百戸となった。
曹敏は逝去すると、原王の諡号を送られ、子の曹焜が後を継いだ。(『范陽閔王矩伝』)
曹矩の伝ですが、曹敏の情報が結構載っているのですね。
景元の辺りは魏の末期260年頃になってくるから、皇族の中でも結構年齢の高い、長老格のような立場になっていたのではないかな。
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簡単解説
彼も他の作品には出ていないのですね。
父も出ていなかったし、ここで出る道理はないからな。記録も特に逸話とかがないのがツラい所だ。
この辺りはもう完全にフィーリングで能力を付けてしまったからのう。こういう人物も今後ぼちぼちでてくるであろう、と言ったところで、今日はここまでじゃな。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。