さて、今回紹介するのは曹茂じゃな。彼は曹操の息子なんじゃがちょっと評判が悪い人物で、曹操からも愛されなかったようなんじゃよ。さて、どんな人物か見ていこうかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹茂の紹介じゃな。上でも書いているが曹操の息子じゃが、愛されなかった人物じゃ。
愛されなかった、と言うのには何か理由があった、と言うことですよね。
曹茂殿は、強情で傲慢な人物であったようだからな。性格の問題が曹丞相には許せなかったのであろう。
さて、それでは曹茂の記録について見ていくとしよう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
曹茂についての記録は以下のような感じじゃな。
楽陵王曹茂は、建安二十二年(217年)、万歳亭侯に取り立てられ、二十三年(218年)平輿亭侯に改封された。黄初三年(222年)、爵位が昇進し、乗氏公に国替えされ、七年(226年)中丘に国替えされた。
曹茂は傲慢で剛情な性格だったので、若い頃から太祖(曹操)にも愛されなかった。文帝の時代になっても一人だけ王にならなかった。
太和元年(227年)聊城公に国替えされ、同年王となった。詔勅に言う。
「昔、象(舜の弟)の行った暴虐は極めて酷かったが、舜はそれでも彼を有庳(ゆうひ)に侯とした。
近くは漢氏の淮南王(劉長、高祖の子)・阜陵王(劉延、光武帝の子)はどちらも乱臣逆子であるが、それでもなお生きている間に領国に復帰した者もあるし、子の時代になって国土を賜った者もある。
舜は上古の時代にあってそのような政策を立て、漢の文帝・明帝・章帝は前の時代においてそれを行った。それらは全て親族に親しむと言う厚い道義を誠実に実行したものである。
聊城公の茂は若い頃は礼の教えを学ばず、成長してからは善道に励まなかった。古代において諸侯を立てる場合、全て賢人に任命する。そのため姫姓でも必ずしも侯となっていないものがある、と先帝は考えられた。それ故に、一人茂だけを王としなかったのである。太皇太后はたびたび気にされて申し出ておられる。
聞けば茂は近来少しく物が分かるようになり昔の非を後悔し、将来に向かって善を修めたいと願っているらしい。
君子はその進歩に協力し、その過去にこだわらないものだ。今、茂を取り立てて聊城王とし、よって太皇太后の子孫に対する思いをお慰めする。」(『楽陵王茂伝』)
だいぶボロクソに言われていますね。しかも前非を悔いて改めようと考えているだけでまだ行動に移していないじゃないですか。
まあ、その後も色々と問題行動を行い、領国を削られたりもしているようだしな。なかなか改まらんかったようだな。
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簡単解説
さすがに彼も他の作品には出てこないですね。
ちょっと個性的な人物であるだけに、個人的にはどこかで出してほしいものだがな。
まあワシのところも評価しているだけで、別にゲーム化とか考えているわけではないからのう。さて、そんなところで曹茂についての紹介は終わりじゃな。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。