さて、今回紹介するのは曹髦じゃな。彼は魏の四代目皇帝なんじゃが、彼自身は高貴郷公と公としてしか諡を与えられていない特殊な人物なんじゃ。それでは曹髦について見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹髦の紹介じゃな。曹芳の次に皇帝になった人物じゃな。
私はもちろんあまり知りませんが、優秀な人物だったらしいですね。
高貴郷公、優れた人物であるのはは間違いない。だが先が見えすぎる聡明さが彼の命を奪ったと言っても良いだろうな。まずは彼の能力評価から見ていくのだろう?
そうじゃな、今回ところは彼の能力評価と共に、それにまつわるエピソードを見ていくとしようかのう。そして彼の運命がどうなっていくのかを追いかけていこうか。
能力評価
さて、それでは彼の時代の記録について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
それでは魏志『高貴郷公紀』周辺の記録から彼についての情報を見ていくとしようかのう。
高貴郷公は若い時から学問を好み、既に一人前であった。斉王が廃されると、公卿が論議して迎え入れ、公を即位させた。十月己丑の日(4日)、高貴郷公が玄武館に到着すると、群臣が上奏して前殿に宿営させるよう要請したが、高貴郷公はそこが先帝ゆかり場所であったために、遠慮して西廂のに宿を取った。
群臣はまた法賀をもって出迎えたいと申し入れたが、高貴郷公は許さなかった。庚寅の日(五日)、高貴郷公が洛陽に入城し、群臣が西掖門の南に出迎えて拝礼したところ、高貴郷公は輿から降りて答拝しようとした。案内役が
「(貴き者は)儀礼では拝礼しない者です。」
と願うと
「私は(まだ)人臣である。」
と言い、そのまま答拝を行った。止車門まで来ると輿から下りた。側近の者が
「古くからのしきたりでは、輿に乗ったまま入ることになっております。」
と言うと、高貴郷公は。
「私は皇太后のお召を受けたのだ。まだ、どうなるか分からない。」
と言い、そのまま徒歩で太極東堂まで行き、皇太后に目通りした。
その日のうちに太極前殿で即位し、席次についている百官は皆喜びに浸ったのであった。(『高貴郷公紀』)
この記事だけ見ても、聡明でしかも偉ぶらず謙虚な性格であることが伺えますね。
そうだな、更に、即位の時には次のような逸話もあるようだ。
高貴郷公は英邁で颯爽としており、言葉ははっきりと良く通った。朝廷から退出すると司馬景王がひそかに
「お上はどのような君主か。」
と言うと鍾会は
「才能は陳思王(曹植)と同じほど、武勇は太祖(曹操)と似ておられます。」
と答えた。司馬景王は言った。
「君の言う通りなら、社稷にとって幸福である。」と。(『高貴郷公』裴注『魏氏春秋』)
うむ、軍事と知謀が共に高いのはこの逸話が大きいのであろう。
そうじゃな、そしてその割には統率と政治が少し抑え目なのは次以降であろう。今回最後は他の作品の曹髦の評価じゃな。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい