さて、今回は曹髦の他の逸話を見ていくこととしようかのう。非常に優れた人物だったのは確かじゃが、彼は凄絶な最期を迎えてしまうんじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回曹髦の紹介、続きじゃな。今回は彼の逸話の続きを見ていくとしようかのう。
ちらっと見たが、彼の場合かなり具体的な逸話が色々ありそうだな。
そうすると結構長くなりそうなんでしょうか。
まあ、あまり詳細にすると大変そうなので、1,2回ぐらいで何とかまとめようと思うんじゃよ。
人物紹介
高祖と小康の比較
甘露元年(256年)二月丙辰の日(9日)、帝は太極殿の東御殿に大勢の臣下を招いて宴会を催した際、侍中の荀顗、尚書の崔賛・袁亮・鍾毓・給事中・中書令の虞松らと礼法制度について議論した挙句、帝王の優劣の程度に言及していた。
帝は夏王朝の小康敬慕していたので、荀顗らにこう質問した。
小康については弟子殿は何か知っているか?
申し訳ありません。ほとんど何も知らないです。
謝ることはない。さすがに知らない人物も多いからな。小康は夏王朝の帝で、彼の父帝が奸臣に殺害され、帝位を一時奪われたのだが、小康が他の遺臣達と挙兵し、奸臣を打倒した、中興の祖とも言うべき陣鬱だな。
近い時代で言うなら、漢王朝を復興した光武帝の事跡が近いか。それでは質問内容を見ていこう。
「夏王朝がもはや衰微してしまい、后相が夏を滅亡寸前まで追いやった時に、小康は夏の人々を結集して、禹の功績を復興した。
漢の高祖(劉邦))は民間から抜きんでて蜂起し、豪傑たちを駆使して、秦王朝や項羽を打ち滅ぼし、天下を残らず我が物とした。この二人の帝王は並外れた才能とずば抜けた知略の持ち主であり、一世を風靡した大賢人と言える。
彼らの功績と徳行について考察すれば、どちらが優れていると言えようか。」
荀顗等は創始者である高祖こそが優れていると答えるんじゃが、ここで曹髦は疑問を呈するんじゃな。
「昔から帝王の功績、徳義、行為、言辞には、それぞれ高下の差があり、必ずしも創業者が全て優れており、継承者が全て劣っているとは限らない。
~中略~
小康は国家滅亡の後に生を受け、諸侯の奴隷にまで身を落として、艱難を逃れ避け、かろうじて身一つで免れながら、よく徳行を敷き広め計略を立てて、最後に過や戈を滅ぼし、よく禹の功績を復活して、夏王朝の先祖を天に合わせ祭り、以前の制度を失うことがなかった。
~中略~
(漢の高祖は)子供としては度々親を危険な目に合わせ、君主としては優れた大臣を獄につなぎ、父親としては子供を守ってやることができず、死して後は国家がほとんど傾き倒れ掛かった。
もしも時代と場所を変えて小康の立場に身を置いていたなら、偉大な禹の功業を復興することは不可能だったかもしれない。
この事から推論して述べると、小康の方が上で高祖の方が下だと考えて良いであろう。君たちはつぶさに議論して、このことについて詳しく説明するように。」(『高貴郷公紀』裴注『魏氏春秋』)
曹髦の言う通りだとしても、一概に小康の方が上とは思わないのですが、妙な説得力はありますね。
創業者と後継者は求められる能力も違ってくるから、本来なら比較のしようがない二人ではあるのだがな。まあ小康ならば、高祖の立場でも天下を統一できたのかも、と思わせる部分で高貴郷公は小康を上、と見たのであろうな。
まあ、本当にそうなのかは分からんところじゃがな。とは言え弟子の言うと入り妙に納得させられてしまう部分はあるんじゃよ。さて、この議論の続きがどうなるか。次のお楽しみじゃな。
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