さて、今回紹介するのは曹熊の紹介じゃな。彼は曹丕、曹彰、曹植等と同じ卞氏の子に当たる人物なんじゃよ。とは言え上の三人ほど彼は目立たん存在じゃな。それは彼が早くに亡くなってしまったからかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹熊の紹介じゃな。彼の兄たちは伊豆tれも武勇や文学、政治で名を馳せた人物ばかり、期待度は非常に高いんじゃなかろうか。
でも彼は知名度は高くないですよね。早くに亡くなったからでしょうか。
いや、彼には兄たちと違い、ほとんど目立つ逸話が残っていない。そのことも影響しているであろう。
そうじゃな、それが悪名であったとしても、尖った部分が多い方が記録としては残り易いからのう。
能力評価
さて、それでは彼の時代の記録について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
彼については魏志『蕭懐王熊伝』に記録が載っているんじゃよ。
蕭の懐王曹熊は早く亡くなった。黄初二年(221年)、諸侯に追封して蕭の懐公の諡号を送った。
太和三年(229年)、また爵位を追贈して王とした。青龍二年(234年)、子の哀王曹炳が後を継いだ。領邑は二千五百戸だった。六年(238年)、逝去した。
子がなく、領国は没収された。(『蕭懐王熊伝』)
記録はかなり少ないですが、221年にはもう亡くなっていたようですね。
子がいることから、成年には達していたと思えるが、文帝が187年生まれ、と言うことは190年以降の生まれと言うことになるであろうから、20代のうちに亡くなってしまった、と言うことだろうな。
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簡単解説
師匠の方は親の曹操を数段階スケールダウンしたような評価ですね。
三国志14は軍事面が極端に低いな。まあ記録が残っていないから、これは判断が難しい所であろうな。
そうじゃな、父と同じ方向性の評価にするのは、ワシの癖じゃな。三国志14で評価した人物の基準も知りたいのう。さて、そんなところで短いが、曹熊の紹介は終わりじゃな。
よし、それでは俺も帰るとするか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。