三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

馬超(ばちょう) 字:孟起(176~222)その4

さて、今回は馬超の紹介4回目じゃな。前回は馬超の暴走が始まったエピソードを紹介した訳じゃが、今回はその後、楊阜達の反抗作戦を中心として見ていくとしよう。今回も馬超は大暴れするんじゃよ。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は馬超の紹介4回目じゃな。楊阜達の反抗作戦がいよいよ始まるんじゃよ。

結構師匠は馬超のことを悪く書いているように思いますが、馬超のことが嫌い、とか言うのとは違うのですか?

あー、そう感じる訳は分からんでもないな。だが、断言しておくが、ワシは三国志の武将はたとえ董卓だろうが基本全員好きじゃぞ。

だが、天邪鬼な面はあるな。演義でやられ役になっている人物をやや過剰気味に評価したり、趙雲とか馬超とかは演義と正史の印象が違い過ぎる、と逆に詳細に違いを書いたり、見方によっては蜀嫌いにも見えなくはないな。 

まあどう受け取るかはその人次第じゃが、個人的にはバランスを取ろうと言う意識が働いておるのは確かじゃな

バランス、ですか、もうひとつピンと来ないのですが・・・?

例えばじゃ、魏と蜀の国力差は屯田民とかを加味すると7:1ぐらいの比率になると良く言われるんじゃが、それは人材の面でも近いことは起こっていると思うんじゃよ。

蜀の武官は関羽から趙雲までの五人が代表となるが、当然この五人には序列がある。そして魏の将軍たちと比較した場合、例えば魏の五将軍である張遼から徐晃までの五人に、蜀の五人は全員割って入れる、とお主は思うか?

うーん、今までの師匠の武将紹介を見ると、そうは思わないです。だって魏には五将軍以外にも曹一族の武将や臧覇と、同じぐらい優秀な武将がいるじゃないですか。

うむ、魏には五将軍以外にも優秀な将軍が多数おり、じゃが多少の序列やカテゴリーの違いで別のグループにまとめられておる。蜀の五人も魏では序列やカテゴリの違いによってグループを分けられてしまい、五将軍のところに残るのは一人か二人じゃろう。

トップクラスは互角ぐらいで、違いは層の厚みと言ったところじゃろうな。そしてそれらの評価にある程度説得力を持たせるためにも、正史と演義で乖離の激しい人物は、詳細に情報を載せる必要がある、とワシは思うんじゃよ。

さて、前置きが少し長くなってしまったが、馬超の続き、見ていくとしようかのう。

人物紹介

気骨稜々たる姜叙の母 

前回の続き、姜叙の母親の𠮟咤により、計画が決まると、外部の郷人姜隠・趙昂・尹奉・姚瓊・孔信、武都の人李俊・王霊と謀議を凝らし、馬超討伐の約束を取り決めた。(『楊阜伝』)

趙昂は前回出てきた王異の夫だな。ここで彼も計画に参画した、と言う訳だな。 

(楊阜は)従弟の楊謨を冀に行かせて楊岳に話をさせ、同時に安定の梁寛・南安の趙衢・龐恭らと手を結ばせた。(『楊阜伝』)

かなり大掛かりな計画となったのですね。結果は成功したのでしょうが、どういう流れになるのでしょうか。

それはすぐわかることだ、続きを見ていくとしよう。

誓約が明確になった後、建安十七年(212年)九月、姜叙と鹵城で兵を挙げた。馬超は楊阜らが旗揚げしたと聞くと、自ら兵を率いて出陣した。ところが(冀県に控えていた)趙衢・梁寛らは楊岳を解放し、冀の城門を閉ざし、馬超の妻子を討伐した。

(帰れなくなった)馬超は歴城を襲撃して、姜叙の母を捕えた。姜叙の母親は彼を罵倒した。

「お前は父に逆らった逆子、君を殺した凶賊じゃ。天も地もどうして長い間お前を許しておこうか。それなのに、早く死にもせず、平気でどの面を下げて人を見るのか。」

馬超は腹を立てて彼女を殺した。

楊阜は馬超と戦い、身体に五個所の傷を受け、一族の弟たち七人が戦死した。(『楊阜伝』)

あ、姜叙の母親も殺害されてしまったのですね。馬超の妻子も殺害されているし、もう本当に血で血を洗う状況に陥っているのですね。

元はと言えば馬超の暴走が原因だからな。自らの過ちが一族を大きく衰退させてしまった。 

趙昂と王異の子の趙月 

さて、楊阜は多大な犠牲を払いながらも、何とか馬超を撃退し、馬超張魯の下へ逃げ込むんじゃ。この少し前のことじゃが、馬超は冀を落とした際に、趙昂を脅迫して嫡子の趙月を人質として差し出させたんじゃ。

趙昂が馬超に信頼されたのは、趙月を人質として差し出していたことと、彼の妻の王異馬超の妻と(表向き)親交を結び、信用させた点も大きかったんじゃ。

趙昂は楊阜らと謀略を結び、馬超を討つことになると、異に知らせた。

「我々の計画は以上のようだ。事は間違いなく万全だが(息子の)月をどうすべきか。

異は声を励まし答えた。

「忠義を我が身に打ち立て、君父の大いなる恥辱をすすぐのです。首を失っても大したことではありませぬ。まして一人の子ぐらい何です。そもそも孔託・顔淵はいったい百年まで生きたと言うのですか。同義を尊重するだけです。」

(『楊阜伝』裴注『列女伝』)

冷酷に見えるかもしれんが、王異殿はかつて自分の息子二人が乱の中で死亡したことで姑たちに合わせる顔がない、と自ら毒を飲んで死のうとしたことがあるほどなのだ。 

自分にも厳しいと言うか、死を本当に恐れていないのですね。日本の戦国時代の葉隠れの考え方に近いですね。

「生と死どちらかを選択しないといけない時は、死を覚悟する」と言うやつだな。確かに彼女はそれぐらい生を突き放していたように見える。だがこれだけの覚悟があったからこそ、馬超が祁山に再度攻め込んできた時に撃退できた、と言えるのだろうな。 

あ、ですが、馬超を撃退できた、と言うことは人質だった趙月は・・・。

もちろん、助かるはずがない。残念ながらこればかりはどうしようもなかった。夏侯淵殿の独断で祁山に急行でき、彼らを救援できたことだけが唯一の救いだな。 

馬超も色々しんどかった、とは思うんじゃが、彼の行動原理は現代人視点はもちろん、当時の中華の人間から見ても倫理観に欠けた行動であったように思うんじゃ。

とは言え馬超自身にも色々苦難があったのは確かじゃろう。そこで次回は馬超自身の心情などをまとめて、終わりとしようかのう。

 

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