さて、今回で陸凱の紹介、〆と行きたいのう。今回は彼の上奏のまとめと、最後、重病になった際の上陳などについて見て終わりとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回で陸凱の記事、最後と行こうかのう。
4回目ですから、今まで紹介してきた人物の中でも少なくはないですよね。
陸遜、陸抗親子の陰に隠れてはいるが、それだけ重要な人物であった、と言うことだろうな。
実際、諸葛亮が出師の表の後に、後出師の表を出した、という説もあるが、似たようなことを陸凱も行い、賢人を取り立てるよう進言しているからのう。それでは早速まとめていくとしようかのう。
人物紹介
孫晧への上奏文(続き)
「~中略~
臣の聞き及びますところ、殷の湯王は有能な人物を商売人たちの間からでも取り立て、斉の桓公は有能な人物を牛車の人夫たちの間からも取り立て、周の武王は有能な人物を奴隷や下僕たちの間からも取り立てた、とのことでございます。
賢明なる王者、聖なる主君は、人物を取り立てるのに際し、賢であるかどうかという点だけで判断を下し、その者の身分が賤しいと言ったことは問題にいたしませんでした。さればこそそうした主君たちの成就した業績とその恩徳とは豊かに満ち溢れ、その名は書物に記し伝えられたのであって、決して顔色を繕う者たちを喜んで、服装を飾り、口先が良く働き、にこやかな顔つきをした者たちを取り立てたのではございませんでした。」(『陸凱伝』)
古代の聖王たちの具体的な実績を宣べ、それと対比するように、今の呉国内の状況を書き記しているのですね。
この内容は諸葛亮が劉禅に宛てた出師の表にも少し内容が似ているかもしれないな。君主を諫め、道を踏みはずさないよう教示している。
「~中略~
どうか陛下には、文官武官たちの能力を判別され、それぞれの官位にあって仕事に尽力するようはげまされますように。
州牧や各地の軍の司令官、領地を授かって藩鎮となっている者や異民族の首領たち、公卿や尚書たちが、努めて仁徳による教化を実行して、上は陛下をお助けし、下は民衆たちを苦難から救い、おのおのその忠を尽くし、陛下の万一のお過ちを補佐いたしますれば、康らかなる哉と言う褒め歌が起こり、刑罰は用いられることがないと言う道理がはればれと実現するのでございます。
どうか陛下には、臣が申し上げました愚かなる言葉にも、ご聖慮をお加えくださいますように。」(『陸凱伝』)
最初の方に書いていたことの焼き直しではあるが、同じことを何度も言葉を尽くして懇願している、と言った体だな。
出師の表でも諸葛亮が同じように繰り返し言葉を尽くしていた、気がします(自信ないw)。
最後の上陳
「~前略~
姚信・楼玄・賀邵・張悌・郭逴・薛瑩・滕脩、それに我が族弟の陸喜・陸抗と言った者たちは、あるいは清廉に身を処しつつ忠勤に励み、あるいは天賦の才能を豊かに備え、それぞれに社稷の根幹となり、国家の良き補佐者となる者たちです。
どうか陛下には、彼らに厚いご配慮をお加えくださり、その時々の重要問題について彼らの意見を徴されますように。
各々その忠節を尽くして、陛下の万一のお過ちを補佐いたすでしょう。」(『陸凱伝』)
と言ったところで269年、陸凱は72歳で亡くなる訳だ。だが彼が亡くなると呉の柱石が亡くなり、陸抗もなくなるとついに陸凱の一族は強制移住させられたりする訳だな。
陸凱と陸抗が呉の両輪となって支えていたのでしょうね。
彼ら二人が全てではないが呉の中では重要な立ち位置であったことは確かだな。
さて、少々長丁場であった陸凱じゃが、如何だったかのう。良ければ次もご覧くだされ。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい