三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

孔融(こうゆう) 字:文挙(153~208)その2

さて、今回は孔融二回目じゃな。

今回は黄巾の乱から北海国の相となる辺りまでの話じゃな。

この間も色々と孔融はやっておるんじゃよ。

  

さて、今回は孔融二回目じゃが、ちと三国志前夜の話は孔融もあまり情報がないんじゃ

それじゃあまりまとまらないんですか?

いや、一応今回は正史の他に、宮城谷昌光氏の『三国志名臣列伝』と三好徹氏の『三国志外伝』を参考にさせてもらうぞい。

それぞれに孔融のエピソードが載っているんですか?

そうじゃな、黄巾前夜の情報がこれらには載っておるんじゃ。ちゃんと調べている両氏には頭が下がるぞい。とは言え言葉を丸写しはできんので、あくまでも参考として使わせてもらうぞい。

分かりました、よろしくお願いします。 

人物紹介

楊賜と何進

張倹をかくまい、自ら兄をかばったことで、孔融の名声が遠近に鳴り響いたことは、前回も書いた通りじゃ。

平原の陶丘洪、陳留の辺譲と三人並んで、俊秀として評価され、若手の代表であった、と言うんじゃ。史書では見識と政治の才では辺譲らに及ばなかったが、並外れた才知と博識では彼等以上であった、と言えるんじゃよ。

史書ではこの後何進に招聘されるんじゃが、『三国志名臣列伝』によると、先に孔融は司徒であった楊賜から辟召を受け、これに応じるんじゃ。この楊賜は楊彪の父に当たり、後々彼ともかかわりが深くなっていくんじゃよ。

楊賜は彼の才能を評価しながらも、孔融の我の強さを危ぶんだようじゃな。

楊賜の危惧は当たり、孔融はその後何進と、直接ではないが、ちっと揉めて故郷に戻ることになるんじゃよ。じゃが何進は存外器が大きく、そんな孔融を罰することもなく、逆に彼を大将軍府に招くんじゃな。

孔融もそんな何進のことを大度があると存外評価したようで、これに応じるんじゃな。この時、孔融文人でありながら、虎賁中郎将に任じられ、その後北海の相に任じられるんじゃよ。

北海の太守

孔融は北海の太守になるんじゃが、その時に鄭玄、彭璆、邴原、王脩等を招集したんじゃ。王脩は主簿とし、当時乱れていた高密県の令を司らせたんじゃ。

王脩はそこで勢力を持つ孫氏を服従させ、うまく統治することに成功するんじゃな。同時期に孔融は邴原と言う人物も有道として推挙したんじゃ。有道は官吏推挙の一科目らしいのう。

さて、上記活躍により、孔融は王脩を孝廉に推挙するんじゃ。王脩はこれを邴原に譲ろうとするんじゃが、孔融は許さないんじゃな。

孔融集』によるとこの時の布令が載せられておるんじゃ。

「邴原の立派さについては余もすでに承知している。昔、高陽氏(黄帝の孫の家)に優れた子息八人がいた。堯は採用できず、実際に彼らを登用したのは舜であった。邴原は位階のことを気にしない人物と言って良い。彼を後の賢明な太守に残しておくのもまた良いではないか。」

王脩が重ねて辞退しようとすると、孔融は答えたんじゃ。

「そなたは身の清潔さを保ち、いくつもの困難を次々とためされながら、対策を立ててほとんど間違わず、人民に対してたゆまず愛情と訓戒を注いでいる。

余は汝の勲功を嘉し、汝の優れた徳に対応し、そのために汝を朝廷に推挙するのである。それを辞退して良いのか。」

じゃが当時天下は乱れており、結局王脩は都へ上れなかったようじゃな。

邴原とのやりとり

孔融と邴原にはちとエピソードがあるんじゃ。

孔融には目をかけていた一人の男がいて、いつもその男を盛んにほめていたが、後に気に入らぬことがあってその男を殺そうとしたんじゃ。

邴原は、その男を取り立てたことが、もし正しいなら、それを殺そうとすることは間違いです。もし彼を殺したことが正しいならば、そもそも(孔融が)取り立てたことが間違いです、と言って、どちらにしても孔融に誤りがある、と正論を述べてやり込めるんじゃよ。

孔融は頭は間違いなく良いし、古典にも通じておる人物じゃが、実務能力に長けているとは言えん面があり、そこは上でも書かれておるように政治能力はちょっと與い部分があるんじゃな。

その上で弁が立ち、ほとんどの人が彼に言いくるめられてしまう。じゃがその孔融をやりこんでしまう邴原は大したもんじゃと思うのう。

最終的に孔融は「わしはただ冗談を言っただけじゃ。」と言い逃れるんじゃが、邴原はまた言ったんじゃ。「君子とその言葉との関係は(言葉が)身体から出れば、人民に影響を及ぼす、と言うものです。

言葉と行動は君子のかなめなのです。どこに人を殺そうとしながら、冗談を言って良いような世界がありましょうか。」

完全に孔融は返答できんかった、とあるんじゃ。これだけのことを言える人物が市井にいると言うのもすごい話じゃな。

王脩の助け

さて、しばらくすると郡中に反乱を起こす者があり、孔融に危機が訪れるんじゃよ。このことを聞くと王脩は夜中にもかかわらず孔融の下へ向かうんじゃ。

孔融の方はこの危機の時に側近に向かって「危難を犯してやってくるものがあるとすれば、それは王脩だけじゃろう。」と言うんじゃよ。

丁度そのタイミングで王脩が到着し、孔融は彼を功曹に任じたんじゃな。

また膠東には乱暴を働く者が多くいたので、孔融は再び王脩を膠東の令に任じ、王脩は見事にこれを治めるんじゃよ。

このように孔融自身は結構難事に遭遇するんじゃが、王脩のおかげで免れることができたんじゃよ。

邴原には孔融はやり込められることが多かったんじゃが、王脩は比較的忠実に孔融を助けるんじゃな。

 

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雑談ぢゃ

さて、孔融の紹介二回目じゃな。

孔融を凄い人物と思うからでしょうか、王脩と邴原がとてもすごい人物のように思えるのですが。

そうじゃな、実際この二人は大した人物じゃぞい。そして残念ながら孔融は彼らを使いこなせた、とは言えんかもしれんのう。

孔融の欠点と言うのはやはり我が強すぎることでしょうか。

まあ、前回の李膺とのエピソードもどちらかと言えば才気走りすぎておる、と言う面もあるからのう。宮城谷氏はそんな孔融に父も危うさを感じた、と言う風に書いておるのう。

三国志の時代でも才気に優れて、と言うと楊脩や諸葛恪、馬謖等はあまり良い終わりを迎えていませんよね。

そうじゃな、孔融は弁が立ちすぎるのが一つの問題じゃろうな。多少屁理屈でもなまじ弁が立つから、それで誰も言い返せなくなってしまう。それはその場では良いかもしれんが、根本的な解決とはならんからのう。

邴原のような存在は実は孔融にとって重要だったのでしょうね。

うむ、じゃがそれを受け入れる度量が孔融にあったか、そこは少々難しいじゃろうな。さて、今回はここまでじゃな。孔融は立伝はされておらんが結構なボリュームになりそうじゃのう。次もよろしく頼むぞい。

良ければ次も見てください、それではまたです。