さて、今回紹介するのは後漢でも最大クラスの学者、鄭玄じゃな。うえで「ていげん」と書いておるが、人によっては「じょうげん」と呼ぶ人もおるようじゃ。
どちらも特に間違いではないので好きな方で呼んだら良いぞい。
彼の事績はあちこちに分散しており、まとめるのがちと大変そうじゃが、順番に見ていくとしようかの。
さて、今回は鄭玄じゃな。後漢の代表とする学者じゃ。
そんなに凄い人物なんですか、師匠は彼の学問について詳しいんですか?
そんなことができておるんなら、わしは今頃どっかで古典の学者としてやっておるかもしれんのう・・・と言うことじゃw
わかりました、わかる範囲で教えてくださいw
うむ、それと今回は宮城谷昌光氏の『三国志名臣列伝 後漢篇』も参考にさせてもらうぞい。それでは順に紹介していくとしようかのう。
人物紹介
若き日の鄭玄
さて、鄭玄じゃが彼は高蜜県の出身で、彼は若い頃から才能を持っておったらしく、様々な逸話があったようじゃ。
宮城谷氏の『後漢名臣列伝』では、遊学して第五元と言う人物の下で易、春秋、算術を学んでいる、とあり、更に天文学と暦法、暦の研究もやっておる、とのことから儒学に留まらず、非常に広い範囲で学問を修めておったようじゃな。
そして彼は盧植と共に馬融と言う学者の下で学問を修めようとするんじゃ。
じゃがこの馬融は非常に多くの弟子を抱えており、彼と直接問答できる弟子は四百数十人いる門下生の中でも、僅か数人であったと言うんじゃ。
そしてその下に数十人、馬融と問答を交わすことはできないが堂上のぼることを許された者がおり、盧植や鄭玄は彼らに教えを受けておった、と言うことらしいのう。
もちろん彼等も並の学生ではなく深い学識の持ち主だったようじゃ。
鄭玄は大五元の後、張恭祖にも就き儒教系の経書を学び、儒教で他に学ぶ者はいないと見て馬融の下に赴いたんじゃが、馬融自身に直接問答できるようになるまでに何年もかかりそう、と言うことで軽く絶望しておったかもしれん。
三年、鄭玄は馬融と会うことができんかったようじゃな。じゃがその間にも学問を修め、馬融と直接言葉を交わした時には、彼に質問に対して見事に受け答えした、と言うことなんじゃよ。
馬融は非常に感心し、鄭玄が馬融の下を去る時には、それを非常に惜しんだらしいんじゃ。
鄭玄の事績
さて、そんな鄭玄じゃが、彼の一番の実績と言うのは『三礼注』と呼ばれるものじゃな。元々『周礼』『礼記』『儀礼』と言う、三つの書物をまとめたものを『三礼』と呼ぶんじゃ。例えば周礼であれば周王朝時代の文化、風俗、政治・官位制度などをまとめたものであるんじゃ。このように古代の制度・礼儀等をまとめたものが『三礼』であり、これに対する解釈を鄭玄はまとめた、と言うことじゃな。
そして彼の修めた学問は広く『鄭学』と言われ、『三礼注』は現在にも伝わるモノとして残っておるんじゃ。
また三国志の史書を紐解くと、裴松之の注釈であちこちに鄭玄の解釈だと以下のように語られている、と言うような話が何ヶ所も記載されており、一つの大きな学派として鄭玄の学問が広く認知されていたことを示しているんじゃよ。
鄭玄のライバル
さて、そんな鄭玄じゃが、彼にはライバルがおるんじゃよ。
それは王粛と言って、王朗の子に当たる人物なんじゃ。王朗は演義を見ていたら分かるが、孫策に敗れて最後は諸葛亮との舌戦でコテンコテンにやられて憤死してしまうんじゃが、史実の王朗はもちろんそんなことはなく、彼は魏王朝に仕え三公にまで上り、また博学多才で学問にも造詣が深く、『易』『春秋』『孝経』『周官』などで注釈を残しておったぐらいなんじゃよ。
王粛はそんな王朗の学者的資質を受け継いでおったんじゃ。彼自身も『尚書』『詩経』等に注釈を加えるなど、多くの著作を残しており、鄭玄とはまた違った解釈を残した、一つの大きな学派を築いておったんじゃよ。そして魏晋の頃はむしろ鄭玄よりも王粛の方の説の方が受け入れられておったようじゃな。
これには少し理由があり、後漢から魏晋の混乱期では古代の礼儀をそのまま取り入れようとしても世情に会わない部分も多かった。そのために時勢に合わせていた王粛の方の説が受け入れられておったようじゃな。
じゃがもちろんそれは時事的な話であり、恐らく理想とする要素の解釈と言う意味では鄭玄の方が古式に則っていたことになる。そのため現代に残っているのは鄭玄の方と言うことになるんかのう。
まあこの辺りは自分が読んでいてそう解釈した、と言うところなので、実は間違っているかもしれん。じゃがまあどちらも時代を代表する学者であったことは確かじゃな。
鄭玄自身は200年で亡くなるが、その学問は時代を超えて伝えられた、エライもんじゃな。と言ったところで鄭玄の紹介はここまでじゃな。続いて能力評価と行くぞい。
今回は・・・とワシのみの評価しかないんか、ちと意外じゃのう。
能力評価
鄭玄は学者としての実績しかないので軍事面は極力控えておる。また本来であれば学者としてだけで、政治的な実績がなければ本来はもう少し抑えるんじゃが、彼の場合は弟子の崔琰や国淵、王基等優れた実績を残した人物が多く、また彼のライバル的存在であった王粛も優秀な実績を残していたことから、相対的に彼の評価も高くしたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、鄭玄の能力評価じゃな。
どの作品にも出ていないのは少々意外でしたね。仕官しての実績がないからでしょうか?
うむ、おそらくその辺りは諸葛亮や龐統の師匠筋に当たる龐徳や兄弟子?になるであろう司馬徽と同じような扱いなんじゃろうな。
そう言えば同郷の邴原は知謀が高かったですが、鄭玄の評価は政治が高いですね。
邴原の場合は学問そのものと言うよりも、彼の生き方や高潔さ、と言う部分の評価も大きいからのう。残した実績もどちらかと言えば知略の冴えを示すものじゃ。一方の鄭玄は儀礼や制度など政治面の実利に直結する内容と言うのが分っているからのう。
古式を学び、それを制度としてうまく取り込んでいくことが大事、と言うことですね。
そうじゃな。そしてそれを後の世にまで伝わる形で残した彼の功績は軽視できるものではない。それ故の高評価じゃな。さて、これにて鄭玄の紹介は終わりじゃ。そして彼には名のある配下も見えてこんので、一人ぼっちの勢力じゃな。これはきついのう。
なるほど、鄭玄自身も軍事が高くなくて、戦争を起こすこともできませんからね。唯一の救いは政治力と知謀の高さでしょうか。
何とか近くの勢力から人材を引き抜ければあるいは、と言うとこじゃろうな。さて、今回はここまでじゃな。
分かりました、良ければ次もご覧くださいね。それと人名索引も載せておきます。気になる人物がいたらこちらもご覧ください。