三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

鄭小同(ていしょうどう) 字:不明(196?~?)

さて、今回は鄭小同と言う人物の紹介じゃな。彼は後漢を代表する大学者、鄭玄の孫に当たる人物なんじゃ。彼の父は名が残っておらんが、どうやら孔融が黄巾賊に囲まれていた時に、彼を救うために駆け付け、賊に殺されたようなんじゃよ。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は鄭小同の紹介じゃな。彼は上でも書いているように後漢を代表する学者の一人である鄭玄の孫に当たる人物じゃ。

どうも張郃だ。鄭小同殿は祖父の名に恥じぬ優れた人物だったが、彼の最後もまた少々不幸であったな。 

鄭玄は確か師匠が妙に推していた記憶がありますね。結構優れた人物で不幸な目に遭う人が多いのですね。

まあ、政争に巻き込まれたようなものだから、これ自体はいつの時代でも普通にある話だがな。 

それでは彼の最後も含めて、評価・事績について見ていくとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 鄭小同(20歳)  45 100 75 90
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓ ↓↓
 鄭小同(45歳)  73 134 106 123

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀・政治

さて鄭小同についても先日紹介した任嘏ほどではないが、記録が結構残っているようじゃな。

甘露三年(258年)、秋八月丙寅の日(4日)、高貴郷公(曹髦)は詔勅を下した。

「そもそも老人を扶養し教育を振興したことこそ三代(夏・殷・周)が教化を樹立し、名声を永遠に残した原因である。

(これらの時代には)必ず三老・五更(周代、老いて退官した官吏を天子が三老・五更として父兄の礼を以て待遇し、天下に孝悌の道を示した。)を置いて、最上の尊敬をささげ、その意見を請い教えを受け入れ、(その善言を)誠実な史書に記録した。

~中略~

関内侯の鄭小同は温良かつ恭順であり、親孝行で友情に厚く、礼法に従って外れることがない。よって、鄭小同を五更とする」(『高貴郷公紀』)

彼は曹髦によって非常に高い評価を受け、長老の一人としての待遇を受けた、と言うことですか。 

そうだ、だが高貴郷公殿は結局司馬一族の息のかかった者たちによって殺害されてしまった。この時の詔勅が無関係ではない、かもしれないな。 

華歆の上奏文に言う。

「私は次のように聞いております。

風俗を美化し教化を広めるには、善行を表彰するにこしたことはなく、俸禄を与え爵位を授けるには、有能な者を高官に取り立てるにこしたことはない、とか。

~中略~

伏して思いますに、亡き漢の大司農、北海の鄭玄は、一台の碩学であり、名声は中国を覆い、その時代の儒学の指導者でありました。

文皇帝(曹丕)は先代の秀れた人物を顕彰され、鄭玄の嫡孫鄭小同を郎中に任命され、長期の休暇を与えて故郷で暮らさせました。

鄭小同はいまや三十歳を過ぎましたが、若い頃から秀れた資質を持ち、学問は六経(易・書・詩・春秋・礼・楽))の全てに渡り、品行は郷里に聞こえております。海・岱(山東省)の人はこぞって彼の素朴さを称え、その気立てを誉めております。

彼の行為の跡をたどると、飾り気がなく真正直で、いつも変わることのない性質が見られます。しかしながら慎み深くかつ寡黙であり、親に対しては細かく気を配りながら孝養を尽くし、人目に立つような美行を行わず、世間的な名声を競い合おうとはいたしません。

これぞまことに、清らかに治まったみ世において任用すべき人物であり、何度も詔勅を下され、可否を考察した上取り立てようと探求している人物であります」(『高貴郷公紀』裴注『魏名臣奏』)

鄭小同が司馬文王の元を訪れた際、司馬文王の手元に内密の書状が置かれ、それはまだ封がしていなかった。司馬文王が手洗いから戻ってきて「君はわしの書状を読んだか?」とたずねると「いいえ」と答えたが、司馬文王はそれでも疑い持ち、毒を盛ったので、死んだ。(『高貴郷公紀』裴注『魏氏春秋』)

鄭小同の最後については、なんだか違和感を感じますね。 

そもそも見られたら困るような密書を封を開けたまま置いて、席を立つと言うのがおかしな話だからな。恐らくは高貴郷公に五更に任じられた鄭小同殿を、皇帝側の人物と見て排除したのではないかな。 

 

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簡単解説

やはり彼もどの作品にも出ていないのですね。

まあ鄭玄殿ですら他の作品では出てこないからな。在野の学者、と言うことで司馬徽等とおなじような扱い、と言うことなのであろうな。  

そう言えば司馬徽も能力のないイベントキャラぐらいでしか出番はないからのう。同じような扱いと言うことには納得じゃな。さて、今回はここまでじゃな。良ければ次もまたよろしく頼むぞい。

二人続けて優れた人物を見れたのは自分にとっての幸いだったな。それでは俺も帰るとしよう。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。