三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

徐璆(じょきゅう) 字:孟玉(?~?)

さて、今回紹介する人物は徐璆と言う人物じゃな。字は孟玉と言うんじゃ。実は彼は正史には名前が出てこない人物なんじゃ。

じゃが実はかなり重要な役割を担っておったようなんじゃな。

 

さて、今回は徐璆と言う人物じゃな。多分演義には出てこない人物じゃな。

確かに演義で名前を見た記憶はないですね。それでも、字とかは分かっていると言うことは結構重要人物だったと言うことですか。

そうじゃな、実は袁術陣営でも韓浩と並ぶ人物、と言えば何となくわかるかのう。

それだけの人が記録に残っていないのはもったいないですね。 

まあ、おそらく時期的に三国志前の人物じゃからのう。皇甫嵩朱儁と同じような立場じゃな。それでは早速行くぞい。

よろしくお願いします。  

人物紹介

郡太守時代

さて徐璆じゃが『先賢行状』によると、字を孟玉と言い広陵の人なんじゃ。

若い頃から清潔でさわやかな生き方をしており、朝廷においては厳正な態度をとっておったそうなんじゃ。

そんな徐璆は任城・汝南・東海の三郡の郡太守を歴任しておったんじゃ。

『汝南先賢伝』によると、徐璆が汝南を訪れた際は許劭の高い名声を耳にして、招請して、彼を功曹とするんじゃ。

許劭に関しては既に紹介しているので、興味ある方はそちらも見てくれると良いぞい。 

許劭らの尽力もあり、暴虐の者は放逐され、清潔な人士が役所に満ちた、とあるそうじゃ。このように徐璆が赴任した地は強化が行き渡る、と言う状態じゃったんじゃよ。

袁術時代

さて、このように各地で実績を残した徐璆じゃが、ここで袁術が出てくるんじゃな。

『先賢行状』によると中央に召し返されて帰還する時に、袁術に無理やり引き留められるんじゃ。

袁術自身は徐璆のことを非常に尊敬しておったようで、自身が帝号を僭称しようとした時に、徐璆を上公の位を授けようとしたそうなんじゃ。

上公とは何ぞや、と思ったんじゃが、史書の『三国志官職表』を見ると、相国(特別な功臣にのみ与えられる役職)のところに(上公)と入っており、恐らく相国と同じ意味を表しておったんではなかろうかな。

漢を通じても相国になった人物はほとんどおらず(董卓ですら強引に名乗ったようなもの)、丞相よりもさらに重要で特別な地位であったと考えられるんじゃ。

さてそんな上公じゃが、徐璆はこれを決して受けず、袁術に屈することはなかった、とあるんじゃよ。

後漢王朝への帰還

さて、袁術が亡くなった時期、徐璆は重要なものを見つけるんじゃな。袁術が帝号を僭称しようとした時に(恐らく作ったであろう)印璽を手に入れたんじゃ。

徐璆は印璽を漢朝に届け、衛尉、太常を拝命するんじゃな。

そして太常時代の208年に、後漢は三公の官を廃止し、丞相と御史大夫を設置し、夏の6月に曹操を丞相に任じるんじゃが、『献帝起居注』によると、この時に徐璆が赴いて、丞相の印綬を授けた、とあるんじゃ。

この時曹操は丞相となると官位を徐璆に譲った、とあるんじゃが、これは丞相の位を譲ろうとした、と言うことじゃろうか。曹操にとっても重要な人物であったようなのは確かなようじゃな。

彼の記録は後漢書の方に伝が立てられておるので、そちらを見ればもう少し詳しい事績が分かるかもしれんが、三国志側に残っておる記録を見るだけでもかなり優秀なのが分るのう。

さてこれ以降は史書にも記録が残っておらんのじゃ。これで徐璆の紹介は終わりじゃな、続けて 能力評価と行くぞい。今回はコーエーテクモさんに出ておるようじゃの。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 徐璆(20歳)  45 70 85 120
 ↓ ↓ ↓ 
 徐璆(45歳)  73 101 117 156

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徐璆は郡太守として実績を残し、袁術曹操などからも一目置かれるほどだったことから、政治能力を高く評価したんじゃ。

軍事面の実績はないものの、彼の人を引き付ける高潔さから、統率も少し高めじゃな。軍事面を補えることができれば、オールマイティに使える人物となるぞい。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 徐璆  68 48 62 76 56

 

 

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雑談ぢゃ

さて、徐璆の能力評価じゃな。コーエーテクモさんも良くこの人物を入れたもんじゃのう。

師匠の方が政治を含めて、全体的に高い評価になりそうですね。

そうじゃな、まあ本来なら演義にも出てこないようなマイナーな人物じゃから、あまり高くも、と言う意識になるんじゃろう。ワシも多少抑えてる気がしなくもないからのう。

確かにあの袁術が上公にしようとした、と考えると相当な気もしますね。

まあしかし彼のような人物が、正史本伝の方にほとんど記録が残っていないのはちと残念じゃのう。

そこは裴松之が良い仕事をした、と言うことですね。

そうじゃな、後漢書も作成は大分後の時代じゃし、裴松之が残した資料のおかげだったものもあるじゃろうからな。さて、今回はここまでじゃな。

紹介ありがとうございました。次もまたよろしくお願いします。他に気になる方がいましたら、下の索引をご覧ください。