三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

李傕(りかく) 字:稚然(?~197)その2

さて、今回李傕の紹介その2じゃな。ここからは少々醜い内紛絡みの話が多くなるかのう。

  

さて、今回は李傕の紹介、2回目じゃな。

まだ長安を占拠したところまでしか行ってないですから、結構先は長そうですかね?

うむ、実は2回でまとめられるかと思っておったが、もう少しかかりそうじゃな。 

どうも、張郃だ。まあ、全てが真実かは分からんが、悪役とされる連中はそうであるための逸話が多数ちりばめられるからな、おそらくその手の話題が多いのだろう。 

そうじゃな、この辺りは裴松之も精力的に資料を集めておるようじゃ。ある意味悪人相手の方が裴松之の筆も、生き生きしとるように見えるでな。

それって単に悪口を掻き立てまくっているだけでは・・・。

まあ裴松之とかは、善悪の行動原理とそれに伴う結果とをやたらと結び付けたがるからのう

それは、こいつはこんな悪事を行ったから、こんな最期を迎えたのも当然だ、みたいなことを指しているんですか?

そう言うことだな、だが、彼の記述を見ると、余り公平と言う感じもないな。かなり個人の好みに応じて記録しているように感じるぞ。その部分においては陳寿も完全とは言えないまでも、まだある程度の公平性を保とうとしているようだな。 

うむ、さて、先は長いからそろそろ李傕の紹介へ行こうかのう。

人物紹介

長安における陰謀

さて、李傕達が長安を制圧していた時期、193年(初平3年)頃の話じゃ。

西方で勢力を伸ばしていた韓遂馬騰が降伏して長安に到着したんじゃ。韓遂を鎮西将軍として西方に帰らせ、馬騰は征西将軍として郿に駐屯させたんじゃ。

じゃが、この馬騰獅子身中の虫となるんじゃよ。

この時侍中の馬宇が諌議大夫の种邵、左中郎将の劉範等と謀って馬騰長安を襲撃させ、自分が内から呼応して、李傕等を誅殺しようとしたんじゃよ。

じゃが、馬騰が長平観まで到達した時、計画が露見し、馬宇等は槐里まで逃亡したんじゃ。樊稠が馬騰を攻撃し、敗北した馬騰涼州へ逃げ帰ったんじゃよ。

更に樊稠は槐里も攻撃し、馬宇等は敗死したんじゃよ。

この頃、長安周辺地域には、尚数十万の戸数があったが、李傕等が兵を放って掠奪を働き、町や村を攻略したため、人民は飢餓に苦しみ、二年の間に互いに食らい合い、ほとんど死に絶えてしまった、とあるんじゃ。むごい話じゃ。 

醜い勢力争い

さて、対馬騰戦などで活躍した樊稠じゃが、彼の運命は暗転するんじゃ。

『九州春秋』によると樊稠が馬騰韓遂を追撃した時に、韓遂がもともと自分達には遺恨がある訳でもなく、同郷人でもある。これが最後になるかもしれないから、ここで語り合って別れよう、と持ち掛けたんじゃ。

樊稠はこれを受け入れ、騎兵を遠ざけともに二人で語り合ったんじゃが、これを見ていたある人物が李傕に、二人は非常に親密そうであった、と告げ口をするんじゃ。

こう言うのはまずいな。ただでさえ疑い深い李傕等を刺激させることになる。 

張郃殿の言う通りで、李傕は樊稠が韓遂と和議を結び、異心を抱いたのではないかと疑うんじゃ。更に樊稠は兵を率いて東に向かい、函谷関を出たいと思い李傕に増兵を申し入れたんじゃ。これが決定打になってしもうたな。

李傕は樊稠を会議に招き、その席上で殺害し、その手勢を手中に収めるんじゃ。

樊稠も戦に強いのは確かなんじゃが、行動が軽率じゃったのう。そのためにあえない最期を迎えてしもうたんじゃよ。   

郭汜とのいさかい

樊稠が亡くなったことで長安は李傕と郭汜が大きな権勢を握ることとなるんじゃ。当初は協調関係にあった二人じゃが、やはりここもうまくはいかんのじゃな。

『典略』によると、李傕はしばしば郭汜を酒宴に招待し、ときには郭汜を引き留めて泊まらせたこともあったそうじゃ。

そこまで仲が良かった二人じゃが、意外なところから二人の関係は綻びるんじゃ。郭汜をの妻は朝帰りをする郭汜を見て、李傕が郭汜に婢妾をあてがって自分への愛を奪おうとしているのでは、と疑うんじゃ。

そのために二人の間を離反させたい、と考えるんじゃ。

丁度李傕から贈り物が届けられたので、郭汜の妻はみそをもって薬を作り、郭汜が食べようとすると、「外からきた食べ物には何か仕掛けがあるかもしれません。」と言って、薬をつまみ出して見せたんじゃ。

「両雄並び立たずとか。私は元々あなたが李公を信頼していらっしゃるのを疑問に思っておりました。」

こう言うのはどちらか片方だけでも疑心を持ってしまうともうだめだからな。妻によって郭汜は完全に疑念を抱いてしまった。 

別の日に李傕がまたも郭汜を招待し、存分に酒をふるまったんじゃが、郭汜は李傕が毒を盛ったのではないかと疑い、解毒剤を飲んだんじゃよ。

この結果、とうとう両者は不和になり、軍勢を整えて攻撃し合うようになるんじゃよ。

李傕は天子を人質として、陣営に捕らえ、宮殿や城門を焼きはらい、役所を攻撃してみくるまや衣服、身の回りの品すべてを収奪し、自分の屋敷においたんじゃ。

後に李傕は公卿を郭汜の下へやって講和を求めたが、郭汜は全員を拘留してしまったんじゃ。

二人は互いに攻撃し合って数ヶ月に及び、死者は万の単位にのぼったと言うんじゃよ。

李傕が献帝を人質としたのもかなり強引だったんじゃよ。『献帝起居注』によると、本来天子は人臣の家に住むようになった例はない、とのことだったんじゃ。それをいr各派無理やり囲って人質のようにしてしまったんじゃよ。

丁度趙温が李傕を手厳しく非難し、李応が李傕を必死になだめたのもこの頃の話じゃな。また『漢書』によると、郭汜も李傕を攻撃する算段を、捕えた公卿にたしなめられ、激怒するんじゃ。李傕も李傕なら、郭汜も郭汜じゃな。

さて、泥沼の様相を呈してきた李傕紹介じゃが、まだもう少し話は続くんじゃ、続きは次まで待ってくれるとありがたいぞい。それにしても董卓陣営のボリューム、半端じゃなさそうじゃのう。  

 

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