三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

馬騰(ばとう) 字:寿成(?~212)その2

さて、今回は馬騰の紹介、2回目じゃな。今回は馬騰の生涯を追いかけて、最後に能力評価と行こうかのう。それでは見ていくとしよう。

 

さて、今回は馬騰の2回目じゃな。

どうも、張郃だ。馬騰殿は何度か見かけたが、あまり記憶には残っておらんな。それにしてもあんなことになるとは、運が悪いのう。 

演義だと曹操に騙される形で殺害されて、馬超曹操の間に因縁ができるんですよね、でも・・・。

そうじゃ、正史では全く違う話じゃ、むしろこれは曹操演義作者の羅漢中に異議申し立てをしても良いくらいじゃ。

やはり史書とは内容が違うのですね。

うむ、それでは早速見ていくとしようかのう。

人物紹介

若き日の馬騰

さて馬騰じゃが、彼は蜀志『馬超伝』の裴松之注『典略』に記録が残っておるんじゃ。それによると彼は後漢初期の名将、馬援の子孫であったと言うことじゃ。

じゃが、彼が生まれた頃、父の馬平は官位を失い、羌族と混じって生活をしておったようじゃ。

かなり困窮しておったようだな。名族の出とは言え、官吏や豪族としての力がなければ生きていくのは厳しい時代であるからな。 

馬騰も当然財と言うものはないことから、いつも彰山に入って材木を切り出し、それを背負って町の市場に売りに行って、生計を立てていた、と言うから、大変なことをやっておるのう。

だが、彼は身長が八尺以上もあり、巨大な体格で、顔も鼻も立派、また賢明で信義に厚く、多くの人々から敬愛された、とあるんじゃよ。

なかなか人望があったようじゃな。

反乱鎮圧への応募

さて、そんな若き日に苦労しておった馬騰であるが、あるとき転機が起きるんじゃ。

霊帝の末期、とあるから185年以降ぐらいの話であろうか。平民の王国や、異民族の氐・羌族が反乱を起こしたんじゃ。

州や郡では平民の中から武勇のある者を募集し、彼らを討伐しようとしたところ、その中に馬騰もおったんじゃな。

当時の八尺と言うと、185㎝ぐらいじゃろうか。今の時代でも大きめの体格であるが、当時はより目立ったであろう。

当然、州や郡は彼に目を付け、軍の従事に任じ、部隊を指揮させるんじゃ。

彼は賊の討伐に手柄を立てて、軍の司馬に任じられ、後に別の戦いでの手柄により偏将軍に任じられ、更に征西将軍に昇進し、常に汧・隴の辺りに駐屯したんじゃ。

この辺りの戦いぶりの詳細は分からんが、異民族や反乱者とかなりの激闘を繰り返していたようだな。 

後に征東将軍になるが、その頃、西方は穀物が不足していたので、馬騰穀物を得るために長平の岸辺に駐屯したらしいんじゃ。

ところが将軍の王承等が、馬騰の存在が自分たちにとって害になるのでは、と疑い、馬騰の軍営を攻撃するんじゃ。折悪しく馬騰はその時外出していて無防備であったため、敗走した、と言うことじゃな。

ちなみに、馬騰長安に上って、李傕達を攻撃しようとした時に樊稠によって長平観の地で敗れた、とあるんじゃ。時機を見ても上に述べた長平の敗戦はこれとリンクしておると思うんじゃが、登場人物が違うために、一応別の戦いとしておいたんじゃ。

ちなみに『董卓伝』の史料を見ていると、以下のような感じで書かれているんじゃ。

馬騰韓遂長安に至り、馬騰が郿に駐屯した時、侍中の馬宇等は共謀して馬騰長安を急襲させ、自分たちが内から呼応して李傕達を誅殺しようとしたんじゃ。

じゃが馬騰長平観まで到達した時に、馬宇等の計画は露見し、彼らは槐里に逃亡したんじゃよ。この時樊稠は馬騰を攻撃し、敗北した馬騰涼州へ逃げ帰ったんじゃよ。更に樊稠は槐里も攻撃し、馬宇等は敗死したんじゃよ。

ネット上で他の史料も見てみたんじゃが、この時は劉焉等とも共謀し、李傕等を排除しようと結構大掛かりに動いておったようじゃな。劉焉の息子らが長安におったようじゃが、この時の騒乱で馬騰達についていたため殺害されたようじゃ。

劉璋だけが後に残った、と言うことだな。劉焉も息子たちが数人亡くなったことで気力を無くしてしまったようだし、存外大きな損害であった、と言うことだな

韓遂との確執の果てに

西方へ戻った馬騰は当初は韓遂と義兄弟の間柄となり、親しくしていたんじゃが、その内互いに侵攻し合い、その最中、馬騰は妻子を失うことになってしまったのは、前回書いた通りじゃな。

じゃが、それを後に魏の名臣となる鍾繇が、鎮めるんじゃな。彼は馬騰を召して槐里に駐屯させ、前将軍・仮節に転任させ、槐里侯に封じたんじゃ。

馬騰は北方の胡の侵略に備え、東方は白(鮮卑族)の騎兵に備え、士人を厚遇し賢者を引き立て、民衆の生命を救うことに務めたので三輔(長安周辺)は甚だ安定した、と言うんじゃ。

丁度この時期に、郭援討伐などで活躍したのだな

じゃが、韓遂との確執で妻子を失ったり、長く続く戦の日々に疲れたのか、馬騰は自らの老いをかえりみ、入朝して警護の役に就いたんじゃよ。

馬騰の最後

さて、入朝しておった馬騰じゃが、意外な事態が発生したんじゃよ。曹操は漢中の張魯を攻めようと関中方面を通ろうとするんじゃが、ここで疑心暗鬼になった馬超等、関中諸軍が曹操に対し、牙をむいたんじゃ。

曹操がどこまでこの事態を把握しておったかは分からんが、彼らが反乱した、と言うことで曹操は討伐対象を関中諸軍としてしまったんじゃ。

馬超等も果敢に戦いを挑み、初戦は曹操を追い詰めるなど良い勝負をしたんじゃが、百戦錬磨の魏軍、結局地力の差を見せつけるように、馬超等を大破してしまうんじゃ。

そして、当然じゃがそれだけで済むはずがない

息子が反乱を起こした、と言うことは当然父である馬騰が無事で済むはずもない。

そうじゃな、こうして馬騰は刑場の露と消えた訳じゃな。静かな余生を送れなかったのは、非常に気の毒な話じゃ、それも要因が息子の反乱のためじゃからな。

さて、馬騰の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。もちろん彼は全作品に登場じゃな。。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 馬騰(20歳)  120 80 55 70
 ↓ ↓ ↓  ↓↓↓ ↓↓ ↓↓
 馬騰(45歳)  156 112 84 101

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馬騰は異民族・反乱軍の討伐で活躍しておったことから、当然軍事面の評価は高めじゃ。また、賢者を登用し、三輔に安定をもたらしたことから、統治能力にも一定上の評価ができると判断し、政治能力も高めじゃ。

じゃが長安急襲の策は失敗し、また何度か敵の不意打ちにしてやられている(最後は息子の裏切り)ことから、知謀は少し抑え目じゃな。また樊稠とは直接対決で敗北しておることから、軍事と統率も樊稠よりは少しだけ抑えておるんじゃよ。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 馬騰  82 80 51 59 89

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 馬騰  12 13 3 6 3 10

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 馬騰  22 13 12 3 19

 

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雑談ぢゃ

さて、馬騰の能力評価じゃな。

ふむ、お主の評価は他と違うのだな。  

師匠の評価も特別編には感じませんでしたが、特に天舞さんとは評価が似ていると思いましたけど、そう言うことではないのですか。

そうじゃな。張郃殿が言っておるのは樊稠と比較しての評価、と言うことじゃろう。わしは軍事・統率共に樊稠の方を高くしたが、他の三作品は全て馬騰の方が高い能力じゃからな。 

まあ一回だけだと完全な勝負付け、とはいかんがな。とは言え元々長安を急襲するつもりで敗れているからな。 

そうじゃな、個人的には董卓陣営は鬼のように強くて全然良いと思うんじゃ。弱くて領土が広いだけの相手なぞラスボスと呼べんじゃろ。強敵であってこそ、じゃと思うし実際関東諸軍は手が出せんかった訳じゃからな。

と語り過ぎてしまったところで、今回はここまでじゃな。良ければ次もまたご覧くだされ

よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。